大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

わが盛また変若めやも・・・巻第3-331~334

訓読 >>>

331
わが盛(さかり)また変若(をち)めやもほとほとに平城(なら)の京(みやこ)を見ずかなりけむ

332
わが命(いのち)も常にあらぬか昔見し象(きさ)の小河(をがは)を行きて見むため

333
浅茅原(あさぢばら)つばらつばらにもの思(も)へば古(ふ)りにし里し思ほゆるかも

334
忘れ草 我が紐(ひも)に付く香具山(かぐやま)の古(ふ)りにし里を忘れむがため

 

要旨 >>>

〈331〉私の盛りは再び若返ることがあるだろうか、いや殆ど奈良の都を見ずじまいになってしまうのだろうな。

〈332〉我が命がいつまでもあってほしい。昔見た象の小川を見にいくために。

〈333〉あれこれと物思いに耽っていると、過ぎ去った昔の故郷がしみじみ思い出される。

〈334〉忘れ草を下紐につけました。香具山がある故郷を忘れようと思って。

 

鑑賞 >>>

 大伴旅人の歌。旅人は和歌や漢文学に優れていただけでなく、政界においても順調に昇進を重ねました。728年には、大宰帥(だざいのそち)に任命され筑紫に赴任。大宰帥は名誉ある役職でしたが、奈良の都を愛してやまない旅人にとっては本意ではありませんでした。この人事は、長屋王排斥をねらう藤原氏にとって、保守派の長老である旅人の存在が目障りだったための左遷だとする見方がありますが、当時は隼人・蝦夷の背叛を患えた時代だったため、武門の名門として輿望のある旅人に白羽の矢が立ったとも見られています。しかし、60歳を過ぎた身には過酷な人事でもありました。ここの歌は、63、4歳ぐらいの時の作だろうとされ、奈良の都を思う、強い望郷の念が生じている歌です。

 331について斉藤茂吉は、「旅人の歌は、彼は文学的にも素養の豊かな人であったので、極めて自在に歌を作っているし、寧ろ思想的抒情詩という方面にも開拓していった人だが、歌が明快なために、一首の声調に暈(うん)が少ないという欠点があった。その中にあってこの歌の如きは、さすがに老に入った境界の作で、感慨もまた深いものがある」と言い、332についても、「分かり易い歌だが、平俗でなく、旅人の優れた点をあらわし得たものであろう。哀韻もここまで目立たずに籠れば、歌人として第一流といっていい」と述べています。

 331の「変若」は若返ること。332の「象の小川」は吉野を流れる現在の貴佐谷川で、「昔見し」といっているのは、聖武天皇の吉野行幸に供奉の一人として加わった時のことのようです(巻第3-315・316)。333の「浅茅原」は、類音で「つばらつばらに」にかかる枕詞。「つばらつばらに」は、つくづく、しみじみと、の意。「古りにし里」は、旅人が35歳まで住んでいた明日香とされますが、334で香具山を詠んでいるので、藤原京だとする見方もあります。

 334の「忘れ草」は、身につけると憂いを忘れさせてくれるというヤブカンゾウのこと。中国の『詩経』に出ているのが我が国に伝わったもので、「忘れ草」という名を得ると、その名に伴う神秘の力をもつという信仰によって広まったようです。「古りにし里」は、旅人が35歳まで住んでいた明日香とされますが、香具山があるのは藤原京です。