大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

霞立つ春の長日を恋ひ暮らし・・・巻第10-1894~1896

訓読 >>>

1894
霞(かすみ)立つ春の長日(ながひ)を恋ひ暮らし夜(よ)も更けゆくに妹(いも)も逢はぬかも

1895
春されば先(ま)づ三枝(さきくさ)の幸(さき)くあらば後(のち)にも逢はむな恋ひそ我妹(わぎも)

1896
春さればしだり柳(やなぎ)のとををにも妹(いも)は心に乗りにけるかも

 

要旨 >>>

〈1894〉霞がかかった春の長い一日を恋い焦がれて過ごし、夜も更けてきたけれど、あの子が現れて逢ってくれないものか。

〈1895〉春が来ると、まず咲き出す三枝(さきくさ)のように、無事でいたなら後に逢えるのだから、そんなに恋しがらないでおくれ、わが妻よ。

〈1896〉春が来て芽吹くしだれ柳の枝がたわむように、愛しいあの娘が私の心にずっしりと乗りかかってきて、心がいっぱいだ。

 

鑑賞 >>>

 いずれも男の歌。1894は、妻に逢いたい気持ちを、妻(妹)を主語にして言っています。1895の「三枝」は、枝が三つに分かれている植物のことだといわれ、三椏(みつまた)、山百合、笹百合、沈丁花などのうちのどれかではないかとされますが、はっきりしません。上2句は二重の序詞になっており、「先づ」までが「三枝」を導き、上2句が「さき」の同音で「幸(さき)」を導いています。

 1896の「春されば」は、春が来て。上2句は「とををに」を導く序詞。「とををに」は、たわみしなうほどに。心の中を好きな女が占めており、その重みが嬉しい、と言っています。「妹は心に乗りにけるかも」の句は万葉人に好まれたようで、他の相聞歌にもいくつか用例が見られます。