大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

遠妻のここにしあらねば・・・巻第4-534~535

訓読 >>>

534
遠妻(とほづま)の ここにしあらねば 玉桙(たまほこ)の 道をた遠(どほ)み 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 苦しきものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日(あす)行きて 妹(いも)に言問(ことど)ひ 我(あ)がために 妹も事(こと)なく 妹がため 我(あ)れも事なく 今も見るごと たぐひてもがも

535
しきたへの手枕(たまくら)まかず間(あひだ)置きて年そ経(へ)にける逢はなく思へば

 

要旨 >>>

〈534〉妻は遠くの地にいてここにはいない。妻のいる所への道は遠く、逢う手立てのないまま、妻を思って心が休まらず、嘆くばかりで苦しくてならない。大空を流れ行く雲になりたい、高く飛ぶ鳥になりたい。そうして明日にでも行って妻に話しかけ、私のために妻が咎められることなく、妻のためにこの私も無事でありたい。今でも夢に見るように、互いに寄り添っていたい。

〈535〉共寝できなくなってからとうとう年を越してしまった。逢えなくなってからもうそんなにも。

 

鑑賞 >>>

 左注には「安貴王、因幡の八上采女を娶る。係念きはめて甚しく、愛情もとも盛りなり。時に勅して、不敬の罪に断め、本郷に退却く。ここに、王の意悼び悲しびて、いささかにこの歌を作る」とあります。安貴王(あきのおおきみ:志貴皇子の孫で春日王の子)は紀女郎を娶っていたにも関わらず、因幡八上采女(やがみのうねめ)と契りを結び、その関係が世間の人に知られることとなったのです。

 安貴王の懸想と愛情の程度があまりに甚だしく、また、采女と関係を持つことは固く禁じられていましたから、二人の恋は勅命によって不敬罪に断じられ、采女は本郷の因幡国に帰されました。歌の前後の配列から、神亀元年(724年)、聖武天皇が即位した年の出来事とみられています。安貴王に対する処罰内容は明らかではありませんが、後に赦され従五位下に叙爵されています。(処罰され本郷に帰されたのは安貴王の方だとする見方もあります)

 この歌は、そうした一大スキャンダルのさなかにありながら、安貴王が、引き離された愛人を思い続け、書き送ったものです。534の「玉桙の」は「道」の枕詞。「た遠み」の「た」は、接頭語。遠いので。「思ふそら」「嘆くそら」の「そら」は気持ち。「たぐひてもがも」の「たぐふ」は、一緒にいる。「もがも」は、願望。535の「しきたへの」は「枕」の枕詞。「手枕まかず」は、共寝をせずに、の意。「年そ経る」は一年経ったという意。なお、長歌の最後が5・7・7・7の形で終わっているのは歌いものに多く見られることから、安貴王の作ではなく、事件が知られて、誰かがこういうふうに歌ったのではないかとする見方があります。都に残ったのがどちらにせよ、全くのお咎めなしとは考えられませんから、やはり当事者本人の歌とは考えにくいところです。

 安貴王と別れた紀女郎は、その後、年若い大伴家持と出会い、恋歌を交わしています。家持は、安貴王の息子、市原王の友人でありました。