大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

大原のこの市柴の何時しかと・・・巻第4-513

訓読 >>>

大原のこの市柴(いちしば)の何時(いつ)しかと我(わ)が思(も)ふ妹(いも)に今夜(こよひ)逢へるかも

 

要旨 >>>

大原のこの柴の木のようにいつしか逢えると思っていた人に、今夜という今夜はとうとう逢えることができた。

 

鑑賞 >>>

 志貴皇子(しきのみこ)が、ようやく逢うことのできた「妹」と呼ぶ女性に与えた歌。上2句が、類音で「何時しか」を導く序詞。眼前の景色を捉えるとともに、「何時しか」を強め、強く待ち望みながら、逢えた喜びの深さを表しています。「大原」は、奈良県明日香村の小原(おうばら)。「市柴」は、繁った柴のことか。「柴」は、雑木。山野などで男女が逢うのは、人目を避けるためで、大津皇子の巻第2-107の歌にもあったように、当時はふつうに行われていたようです。

 なお、志貴皇子という人について、作家の大嶽洋子は次のように述べています。「彼の処世術については、あらゆる憶測が飛び、それによって歌の解釈も微妙に変わってくる。もともと隠者的で、政治や権力に関心がなかったのだろうとか、一応の地位と待遇を与えられることで、政権の枢軸から一歩距離を置くことを選んだのだろうとか、いや彼は文化的な面では結構活躍しているとか。歴史を遡って読むときの余裕かもしれないが、私は彼は慎重かつ知的なそのゆえに政治的な人間ではなかったかと思うのだ。勿論、そのことはおそらくは父親ゆずりの冷静な観察力と判断力によるものがあろう。同じ天智天皇の皇子でも、異腹の兄弟の大津皇子はみごと持統天皇の挑発にのって自滅した。川島皇子大津皇子を讒言で体制側に売ることによって生き延びようと画策した。志貴皇子は冬の時代と見きわめて冷静に耐える道を選んだと私は思う」