大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

神奈備の磐瀬の杜の霍公鳥・・・巻第8-1466

訓読 >>>

神奈備(かむなび)の磐瀬(いはせ)の杜(もり)の霍公鳥(ほととぎす)毛無(けなし)の岳(をか)に何時(いつ)か来鳴かむ

 

要旨 >>>

神奈備の岩瀬の森で鳴いているほととぎすよ、自分の住んでいる毛無の岡には一向に声が聞こえないが、いつになったら来て鳴いてくれるのか。

 

鑑賞 >>>

 志貴皇子(しきのみこ)の歌。「神奈備」は神のいる神聖な場所という意味で、ここは飛鳥の神奈備ではなく竜田の神奈備で、その南方に「岩瀬の森」があります。「磐瀬の社」で霍公鳥が鳴くことを詠む歌は他にもあり(巻第8-1470)、霍公鳥の名所だったのかもしれません。「毛無の岡」の所在未詳ながら、「毛無」は、樹木の生えていないはげ山などの土地を示す場合が多いようです。

 国文学者の窪田空穂は、この歌について次のように評しています。「磐瀬の社へ行って、そこに鳴いている霍公鳥を聞いた時、わがいる毛無の岳へはいつ来るだろうと、その時の早からんことを願った心のものである。『磐瀬の社』『無毛の岳』という地名の重い響と霍公鳥の優婉な声とがおのずから対照的となり、一首にある深みを帯びさせている。調べも重くさわやかで、その心を生かすものとなっている。単純な、品位の高い歌である」

 志貴皇子天智天皇の第7皇子で、天武朝ではすでに成年に達していたとみられ、天武8年(679年)5月に、吉野宮における有力皇子の盟約に参加しています。続く持統朝では不遇であったらしく、撰善言司(よきことえらぶつかさ)に任じられたほか要職にはついていません。しかし、志貴皇子薨去から50年以上を経た宝亀元年(770年)、息子の白壁王(しらかべのおおきみ)が62歳で即位し光仁天皇となって天智系が復活したのに伴い、春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしらしめすすめらみこと)と追尊、また田原天皇とも称されるようになりました。『万葉集』には短歌6首を残し、流麗明快で新鮮な感覚の歌風は高く評価されています。

 天智天皇の弟の大海人皇子が、壬申の乱に勝利し天武天皇として即位して以来、持統・文武・元明・元正・聖武孝謙淳仁・称徳の8代にわたって天武系の皇統が続きましたが、孝謙女帝が重祚して称徳天皇になった時点で、天武系の子孫は絶え、天智天皇の皇孫である白壁王が第49代光仁天皇として即位しました。そして、その子の山部(やまのべ)皇子が第50代桓武天皇となり、時代は平安時代へと移っていきます。その意味で、志貴皇子の存在は、はからずも歴史上重要な結節点となったのです。