大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

四極山うち越え見れば・・・巻第3-272~273

訓読 >>>

272
四極山(しはつやま)うち越え見れば笠縫(かさぬひ)の島(しま)漕(こ)ぎ隠(かく)る棚(たな)なし小舟(をぶね)

273
磯(いそ)の崎(さき)漕(こ)ぎ廻(た)み行けば近江(あふみ)の海(み)八十(やそ)の港に鶴(たづ)さはに鳴く

 

要旨 >>>

〈272〉四極山を越えて、見ると笠縫の島の辺りを漕いで姿を消していった船棚のない小舟よ。

〈273〉出入りの多い琵琶湖の岸を漕ぎ廻っていくと、多くの港ごとに鶴がさかんに鳴いている。

 

鑑賞 >>>

 題詞に「高市連黒人が羈旅の歌八首」とあるうちの2首。272の「四極山」も「笠縫の島」も、所在は不明ですが、前後の歌がすべて東国の地を詠んでいるところから、三河国ではないかといわれます。「棚なし小舟」の「棚」は、船の舷側にとりつけた棚板で、それのない小さな舟の意。そのような舟の航海は、できるだけ岸を離れないように船を進めていましたから、すぐに島に隠れて見えなくなってしまいます。273の「廻み行けば」の「廻み」は、迂回すること。琵琶湖沿岸に散在する土地の交通は第一に船によっていましたから、数多くの湊がありました。

 国文学者で歌人佐佐木信綱は、人麻呂の旅の歌と対照的な黒人の歌について次のように述べています。

 ――黒人はいつも来るのが遅すぎる。だから、もう少し早く来れば起きたはずのドラマも出会いもない。黒人はむしろ意識して出会いを避け、ドラマから身をそらしているように見える。一方、人麻呂の歌には出会いを求める姿勢がある。だからドラマがある。人麻呂の歌に見られる劇的な緊迫感は、彼の出会いを重視する心情的な構え、ドラマを詩の核心に捉えようとする意図によるものなのだ。

 もちろん、出会いやドラマがなければならないこともないし、去ってゆくものだけを見つめていてはいけないわけでもない。これは資質のちがいというべきだろう。実際、黒人の、やや不安げではあるけれども、繊細で透明な旅の歌を好む人も多い。そここそが、歌の世界の幅の広さかもしれない。――