大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

朝霧のおほに相見し人故に・・・巻第4-599~601

訓読 >>>

599
朝霧(あさぎり)のおほに相(あひ)見し人(ひと)故(ゆゑ)に命(いのち)死ぬべく恋ひわたるかも

600
伊勢の海の磯(いそ)もとどろに寄する波(なみ)畏(かしこ)き人に恋ひわたるかも

601
心ゆも我(わ)は思はずき山川(やまかは)も隔(へだ)たらなくにかく恋ひむとは

 

要旨 >>>

〈599〉朝霧のようにおぼろげにしかお逢いしないお方なので、私は死ぬほど恋しく思い続けています。

〈600〉伊勢の海にとどろく波のように、身も心もおののくような人を恋い続けているのですね。

〈601〉心にも思ってもみませんでした。間が山や川で隔てられているわけではないのに、こんなに恋い焦がれることになるとは。

 

鑑賞 >>>

 笠郎女(かさのいらつめ)が大伴家持に贈った歌。599の「朝霧の」は「おほ」の枕詞。「おほ」は、明瞭でない状態、おぼろげなさまを示す語。歌人日高堯子は、「単にことばの上の働きばかりでなく、朝霧の中で二人が出逢って別れたような無限的な情景も想像させる。あるいはほんの少しの逢瀬があったばかりに、恋の火がいやさらに燃え上がったのだろうか。女郎の恋は、いわばはじめから成就を望めない、悲劇的な恋であった。だが、悲劇的な恋ゆえに、歌はいっそうの輝きと力を得たともいえようか」と述べています。なお、この歌がこのような位置にあることから、郎女の24首は必ずしも元の順序通りにはなっていないとの見方があります。

 600の「磯もとどろ」の「磯」は、岩石からなる海岸。「とどろ」は、動詞「轟(とどろ)く」と同源で、轟音を表す擬声語に由来する形状言。上3句は、波の恐るべきさまによって「畏き」を導く序詞。「畏き人」は、身分の高い人。家持は旧家の名門の御曹司でしたから、笠郎女は社会的階級からいえば、その家柄は劣っていたのでしょう。ただし、ここでは、単に畏れ多いという意味のほかに、その心の測り難さをも「畏き」と表しているかのようです。窪田空穂はこの歌について次のように言っています。「女郎の心情の全部を披瀝して訴えた歌である。全部というのは、家持を『畏き人』と呼んでいることである。女郎からいうと、初めは家持を思うままにわが物とできると思ったのであろうが、案外にもつれない人であって、その意味では絶望を感じさせられた。しかし、時にはある程度の温情を示すこともあるので、諦めるには諦めきれない状態であったとみえる。本来勝気な、情熱も理知もある女性であるから、自尊心も伴って、どうにかできようという気もし、またどうにもならない気もして、動揺していたとみえる。これはどうにもなりそうもない気の勝ってきた時の心で、家持が心に余る、捉えきれない者に見えてきた時の心情であって、その全部を『畏き人』という一言に託している。この一群の中に置いて見ると、心理の陰影を微妙にもあらわし得た、含蓄のある優れた歌である」。

 601の「心ゆも」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。「も」は、詠嘆。「山川も」は、山も川も。「隔たらなくにの「なく」は、打消し「ず」の名詞形。「に」は、詠嘆。「かく」は、こんなに。

 

 

『万葉集』掲載歌の索引

笠郎女の歌(索引)