大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

高山の巌に生ふる・・・巻第20-4454

訓読 >>>

高山(たかやま)の巌(いはほ)に生(お)ふる菅(すが)の根のねもころごろに降り置く白雪(しらゆき)

 

要旨 >>>

高い山の岩に生えている菅(すが)の根のように、ねんごろに降り積もった白雪の何と見事なこと。

 

鑑賞 >>>

 天平勝宝7年(755年)11月、橘諸兄が、息子の左大臣奈良麻呂宅での宴席で詠んだ歌。ここには諸兄の歌のみで、参席した人たちの歌は残されていませんが、奈良麻呂と親しい人が集まっていたはずです。上3句は「根もころごろに」を導く序詞。「根もころごろに」は、根がびっしりと固まっているさま。

 この時期、前月に聖武太上天皇が発病し、すでに70歳を超えていた諸兄にとって、今後の政情への不安感は大きかったはずです。この宴の直後に諸兄が、不敬の発言があったと近侍によって密告される事件が起きました。聖武太上天皇は取り合いませんでしたが、翌年2月に左大臣を辞職して致仕せざる得なくなりました。その翌年に諸兄は亡くなりますが、このことが死の遠因になったともいわれます。 また、長い間、諸兄を頼りにし、庇いもしてきた聖武太上天皇も、諸兄が辞職したわずか3か月後に崩じました。権勢を伸ばしつつあった藤原仲麻呂にとって憚りのある人物が、相次いで世を去ったのです。
 
 奈良麻呂は、父の諸兄に代わって権勢を握った藤原仲麻呂を打倒しようとして、大伴・佐伯氏らと結んで、仲麻呂の擁立した皇太子(のちの淳仁天皇)の廃太子を計画しましたが、未然に発覚。奈良麻呂らは捕えられ、獄死しました。連座して処罰された者の数は443人に及び、その中には大伴家の同族も含まれていました。