訓読 >>>
220
玉藻(たまも)よし 讃岐(さぬき)の国は 国からか 見れども飽かぬ 神(かむ)からか ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)と共に 足り行かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来たる 那珂(なか)の湊(みなと)ゆ 船 浮(う)けて 我が漕(こ)ぎ来れば 時つ風 雲居(くもゐ)に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)とり 海を畏(かしこ)み 行く船の 梶(かじ)引き折りて をちこちの 島は多けど 名くはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯面(ありそも)に 蘆(いほ)りて見れば 波の音(おと)の 繁(しげ)き浜辺(はまへ)を 敷栲(しきたへ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に ころ臥(ふ)す君が 家知らば 行きても告(つ)げむ 妻知らば 来(き)も問はましを 玉桙(たまぼこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは
221
妻もあらば摘(つ)みて食(た)げまし沙弥(さみ)の山 野の上(うへ)のうはぎ過ぎにけらずや
222
沖つ波(なみ)来寄(きよ)する荒磯(ありそ)を敷栲(しきたへ)の枕とまきて寝(な)せる君かも
要旨 >>>
〈220〉藻が美しく靡く讃岐の国は、国柄のせいか、いくら見ても見飽きることがない。その国の神のせいか、大変に貴い。天地も日月も満ち足りていて、神のように美しい顔を備えている。遠い時代から受け継いできた那珂の港から船を浮かべて漕ぎ渡ってくると、時ならぬ風が雲の浮かぶ辺りから吹いてきた。沖の方を見ると波がうねり立ち、岸辺には白波が騒ぎ立っている。その恐ろしい海を梶が折れんばかりに漕いで、あちこちに多くの島が浮かぶ中、霊妙な名を持つ狭岑の島の荒磯に漕ぎつけて仮小屋を建てた。すると、波音が激しい浜辺に、そんなところを枕にして、人気のない荒れ床に横たわっている人がいるではないか。この人の家が分かれば、行って知らせもしように。妻が知ればやって来て声をかけるだろうに、ここに来る道も知らないまま、ぼんやりと待ち焦がれていることだろう、あなたの愛しい妻は。
〈221〉この人の妻が一緒にいたら、一緒に摘み取って食べただろうに、沙弥の山の野の嫁菜(よめな)。その嫁菜の季節も過ぎてしまっている。
〈222〉沖の波がしきりに打ち寄せる荒磯、そんな磯を枕として寝ておられるお人だ。
鑑賞 >>>
瀬戸内海を西方から東方に向かって航海していた柿本人麻呂が、時つ風(時を定めて吹く風、潮の干満の時刻になると吹く風)を逃れて上陸した讃岐の狭岑(さみね)の島で、海岸の岩の間に横たわる死人を見て作った歌です。「狭岑の島」は、香川県坂出市の沙弥(さみ)島。今は埋め立てによって市内と陸続きになっています。
220の「玉藻よし」「鯨魚とり」「敷栲の」「玉桙」は、それぞれ「讃岐」「海」「枕」「道」の枕詞。「ここだ」は、多いという意の古語。「神の御面」は、讃岐を賛美する表現であり、『古事記』の神話に「四国は身一つにして面(おも)四つあり、面ごとに名あり」とあって、讃岐国を「神の御面」と讃えている記述から来ています。「那珂の湊」は、丸亀市金倉川河口あたりの港。「をちこち」は、あちこち。「名くはし」は、土地の名が霊妙で賛美性をもつことの表現。「くはし」は、細部まで精妙で完全・完璧な意であり、『万葉集』では「細」「麗」「妙」の字があてられています。「ころ臥す」の「ころ」は、自らの意。「おほほしく」は、心が晴れないで。「妻ら」の「ら」は、音調のためのもの。
221の「けらずや」の「や」は、反語。222の「沖つ波」は、沖の波。「つ」は、上代のみに用いられた古い連体格助詞。「うはぎ」は、嫁菜の古名。死因を餓死とみての歌のようです。
ここの歌は挽歌とすべきものですが、死者そのものには多く触れず、生者とさして変わらないように美しい詞で叙して一種の敬意をあらわしているだけで、人麻呂はただちに死者の妻に思いを馳せています。その死者に妻があるか無いかは知らないものの、妻があると想像した上で憐れんでおり、それが歌の中心になっています。斎藤茂吉は、「人麿はこういう種類の歌にもなかなか骨を折り、自分の身内か恋人でもあるかのような態度で作歌している。それゆえ軽くすべって行くようなことがなく、あくまで人麿自身から遊離していないものとして受け取ることができる」と言っています。
長歌と短歌
長歌は、「5・7・5・7・7」の短歌に対する呼び方で、5音と7音を交互に6句以上並べて最後は7音で結ぶ形の歌です。長歌の後にはふつう、反歌と呼ぶ短歌を一首から数首添え、長歌で歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容をまとめたりします。
長歌の始まりは、古代の歌謡にあるとみられ、『古事記』や『日本書紀』の中に見られます。多くは5音と7音の句を3回以上繰り返した形式でしたが、次第に5・7音の最後に7音を加えて結ぶ形式に定型化していきました。
『万葉集』の時代になると、柿本人麻呂などによって短歌形式の反歌を付け加えた形式となります。漢詩文に強い人麻呂はその影響を受けつつ、長歌を形式の上でも表現の上でも一挙に完成させました。短歌は日常的に詠まれましたが、長歌は公式な儀式の場で詠まれる場合が多く、人麻呂の力量が大いに発揮できたようです。
人麻呂には約20首の長歌があり、それらは平均約40句と長大です。ただ、長歌は『万葉集』には260余首収められていますが、平安期以降は衰退し、『古今集』ではわずか5首しかありません。