訓読 >>>
2380
はしきやし誰(た)が障(さ)ふれかも玉桙(たまほこ)の道(みち)見忘れて君が来(き)まさぬ
2381
君が目を見まく欲(ほ)りしてこの二夜(ふたよ)千年(ちとせ)のごとも我(あ)は恋ふるかも
2382
うち日さす宮道(みやぢ)を人は満ち行けど我(あ)が思ふ君はただひとりのみ
要旨 >>>
〈2380〉ああ悔しい、いったい誰が邪魔をしているのでしょう。通い慣れた道もお忘れになってしまったのか、あの人は一向にいらっしゃらない。
〈2381〉あなたのお顔が見たくて、この二晩というもの、千年も経ったかのように私は恋い続けています。
〈2382〉都大路を人が溢れるほどに往来しているけれど、私が思いを寄せるお方はたったお一人っきりです。
鑑賞 >>>
『柿本人麻呂歌集』から「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」3首。2380の「はしきやし」は、ここは、ああ悔しい、の意で独立句。「障ふれ」は、邪魔をされる。「かも」は、疑問の係助詞で「来まさぬ」に続きます。「玉桙の」は「道」の枕詞。道の曲がり角や辻などに魔除けのまじないとして木や石の棒柱が立てられていたことによります。斎藤茂吉はこの歌を評し、「気が利いていてなかなかおもしろい。その想像も今から見れば幼稚だが、若い女性に言われると、甘美の声と共に力強くなってくるのであり、また『道見忘れて』などの小味のところも腑に落ちで来てくるのである」と述べています。
2381の「目」は、顔、姿。「見まく欲りして」の「見まく」は「見る」のク語法で名詞形。原文「見欲」で、ミマクホシキニ、ミマクホシケクなどと訓むものもあります。「二夜」は、逢って後、またの逢いを待った二夜。この歌について窪田空穂は、「夫の来るのを待つ心で、例の多いものである。『この二夜』がじつに働きをもっている。実際を捉えての語で、事としては何事でもないが、実際であるがゆえに、異常の働きあるものとなっているのである。作者の手腕である」と述べています。
2382の「うち日さす」は「宮」の枕詞。「宮道」は宮廷に通う道のことで、藤原京の都大路とされます。官人の妻が、朝、出仕して宮道を行く夫を捉えての歌でしょうか。あるいは斎藤茂吉は、「都の少女や青年などが揃って歌い且つ相当に感応した歌のように思える」と言い、作家の田辺聖子は次のように述べています。「愛の不思議にはじめて遭遇しておどろく、そのさまがういういしいので、まだ十代の恋だろうか。素直なおどろきが、忘れがたい思いを残す。『万葉集』には強い輝きを放つ大粒の宝石も多いが、こんなに小粒のダイヤのような、愛らしいのも多い」。また佐佐木信綱は、巻第13-3249の「敷島の大和の国に人二人ありとし思はば何か嘆かむ」と「並ぶべき佳作」と評しています。
藤原京は飛鳥京の西北部、現在の橿原市の位置にあった日本初の都城です。 南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路と東西の大路を碁盤の目のように組み合わせて左右対称とする「条坊制」を、日本で初めて採用した唐風都城です。持統天皇8年(694年)から和銅3年(710年)まで、持統・文武・元明天皇の3代にわたり16年間続きました。
藤原宮は、約900m四方の区画に、内裏、大極殿、朝堂院が南北に並び、その両側に官衛がありました。現在、大極殿跡に「大宮土壇」と呼ばれる基壇が残っています。宮殿造営のための用材は、近江国の田上山で伐り出され、筏に組まれて、宇治川と木津川の水域を利用して泉津まで運ばれ、陸路で奈良山を越えて、再び佐保川の水運を利用して、藤原宮の建設現場まで運ばれました。
歌の形式
片歌
5・7・7の3句定型の歌謡。記紀に見られ、奈良時代から雅楽寮・大歌所において、曲節をつけて歌われた。
旋頭歌
5・7・7、5・7・7の6句定型の和歌。もと片歌形式の唱和による問答体から起こり、第3句と第6句がほぼ同句の繰り返しで、口誦性に富む。記紀や 万葉集に見られ、万葉後期には衰退した。
長歌
5・7音を3回以上繰り返し、さらに7音の1句を加えて結ぶ長歌形式の和歌。奇数句形式で、ふつうこれに反歌として短歌形式の歌が1首以上添えられているのが完備した形。記紀歌謡にも見られるが、真に完成したのは万葉集においてであり、前期に最も栄えた。
短歌
5・7・5・7・7の5句定型の和歌。万葉集後期以降、和歌の中心的歌体となる。
仏足石歌体
5・7・5・7・7・7の6句形式の和歌。万葉集には1首のみ。