大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

【為ご参考】「東歌」について

 巻第14には「東国(あづまのくに)」で詠まれた作者名不詳の歌が収められており、国名のわかる歌とわからない歌に大別し、それぞれを部立ごとに分類しています。当時の都びとが考えていた東国とは、おおよそ富士川信濃川を結んだ以東、すなわち、遠江駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸信濃・上野・下野・陸奥の国々をさしています。『万葉集』に収録された東歌には作者名のある歌は一つもなく、また多くの東国の方言や訛りが含まれています。

 もっとも、これらの歌は東国の民衆の生の声と見ることには疑問が持たれており、すべての歌が完全な短歌形式(五七五七七)であり、音仮名表記で整理されたあとが窺えることや、方言が実態を直接に反映していないとみられることなどから、中央側が何らかの手を加えて収録したものと見られています。そして、東歌を集めた巻第14があえて独立しているのも、朝廷の威力が東国にまで及んでいることを示すためだったとされます。

 歌の表現の特徴として、大きな地名に小さな地名を重ねた言い方をしているものが数多く見られます。たとえば「足柄の土肥」「上つ毛野伊香保の沼」「葛飾の真間」「信濃なる千曲の川」「鎌倉の見越の崎」など、くどいとも言える地名表現が多々あります。地元の人たちが詠む歌の物言いとしてはかなり不自然で、いかにも説明的であり、こうしたところからも、中央の関係者によってかなり手が加えられたものと想像できます。

 また、東歌には、馬を詠んだ歌が15首あり、うち8首は馬に乗って出歩く歌です。この時代、高価な馬を飼育して乗り回すことができたのは、一握りの豪族層、最低でも下級官人クラスであっただろうとみられています。東歌のもともとの作者は豪族階級の人たちであり、接点のあった都の人たちが歌を作っているのを模倣したのが始まりだろうとされます。