訓読 >>>
3887
天(あめ)にあるやささらの小野(をの)に茅草(ちがや)刈り草(かや)刈りばかに鶉(うづら)を立つも
3888
沖つ国うしはく君の塗(ぬ)り屋形(やかた)丹塗(にぬ)りの屋形(やかた)神の門(と)渡る
3889
人魂(ひとだま)のさ青(を)なる君がただひとり逢へりし雨夜(あまよ)の葉非左し思ほゆ
要旨 >>>
〈3887〉天界のささらの小野で茅草を刈っていたら、私の草刈り場の草陰から、だしぬけにウズラが飛び立った。
〈3888〉沖の果ての冥界をお治めになる大君の、丹塗りの屋形丹、その丹塗りの屋形丹が、神霊のとどまる狭い所をお渡りになる。
〈3889〉人魂である真っ青な顔の君が、ただ一人さまよっている。その君に私が出くわした雨の夜の葉非左を思うと、ぞっとする。
鑑賞 >>>
「怖ろしき物の歌」3首。3887の「天にあるやささらの小野」は、天上霊異の世界にある、ささら小野。「ささら小野」は想像上のもので、詳細不明。「刈りばか」は、自分が分担する草刈り場。天のささら小野のような寂しい野で独りで草を刈っていたら、急にウズラがバサバサと音を立てて飛び立ち肝を冷やしたという歌でしょうか。
3888の「沖つ国」は、海の彼方にある国で、死者の行く常世の国または黄泉の国。「うしはく」は、支配する。「丹塗りの屋形」は、黄色に塗った、冥府の支配者が乗る屋形船。「神の門」は、神霊のとどまる狭い所。「渡る」は、通り過ぎて行く。
3889の「人魂」は人の身から抜け出た魂。この時代は身体と魂は別なものであり、魂が身体に宿っていることが「生」、抜け出るのが「死」であるとされ、魂はそれ自体が地上を彷徨うことがあるとされていました。「葉非左」は訓義未詳。何のことか分からないのでかえって気味悪くあります。
正岡子規による「巻第16」評
巻第16は、巻第15までの分類に収めきれなかった歌を集めた付録的な巻とされ、伝説的な歌やこっけいな歌などを集めています。しかし、かの正岡子規は、この巻第16について、次のように述べています。
万葉20巻のうち、最初の2、3巻がよく特色を表し、秀歌に富めることは認めるが、ただ、万葉崇拝者が第16巻を忘れがちであることには不満である。寧ろその一事をもって万葉の趣味を解しているのか否かを疑わざるを得ない。第16巻は主として異様な、他に例の少ない歌を集めており、その滑稽、材料の複雑さ等に特色がある。しかし、その調子は万葉を通じて同じであり、いかに趣向に相違があるとしても、それらはまごうことなき万葉の歌である。そして、はるか千年前の歌にこのような歌が存在したことを人々に紹介し、万葉集の中にこの一巻があることを広く知らしめたい、と。