大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

防人の歌(23)・・・巻第20-4369

訓読 >>>

筑波嶺(つくはね)のさ百合(ゆる)の花の夜床(ゆとこ)にも愛(かな)しけ妹(いも)ぞ昼も愛(かな)しけ

 

要旨 >>>

筑波の嶺に咲くさ百合の花ではないが、夜床(ゆとこ)で可愛くてならない彼女は、昼間でも可愛くてならない。

 

鑑賞 >>>

 常陸国の防人、上丁、大舎人部千文(おおとねりべのちふみ)の歌。「筑波嶺」は、茨城県西部の筑波山。上2句は「夜床」を導く序詞。「さ百合(ゆる)」の「さ」は美称、「ゆる」は「ゆり」の方言で山百合の花。「夜床(ゆとこ)」は「よとこ」の方言。「愛しけ」は「愛しき」の方言。

 妹の可愛さを称えるのに終始しており、斎藤茂吉はこの歌を「言い方が如何にも素朴直截で愛誦するに堪うべきもの」と評しています。東歌といってもよい、防人とは全く関係なさそうな恋歌ですが、防人の大舎人部千文が詠んだものですので、防人歌に相違ありません。

 

 

 

防人制度の変遷

 防人制度は、大化2年(646年の)の改新の詔にその設置の記載が見えますが、663年の白村江の戦いに敗れたことにより、九州北部の防衛強化のため本格的に整備されたと考えられています。

 その後、天平2年(730年)に防人は一時停止され、737年に筑紫にいた東国の防人を郷里に帰すことが決まり、翌年に約2,000人の防人たちが東国へ戻っています。しかし、巻第20に収集された防人歌は755年のものであるので、これ以前に東国からの徴発が復活していたとみられています。

 防人制度に対する東国の人々の不満はしだいに高まり、天平宝字元年(757年)に東国からの徴発は廃止され、九州からの徴発に変更されました。その後何度かの改廃を経て、防人の徴発は行われなくなり、10世紀には実質的に消滅しました。

 東国人にとって、防人歌に詠われたような九州に旅立つ悲しい別れはなくなったものの、8世紀後半になると、蝦夷との戦乱が激化したため東国から大規模な兵役が強いられるようになり、その負担は9世紀初めまで続きました。防人への徴発がなくなった代わりに、今度は東北制圧のための重い兵役や軍事の負担がのしかかってきたのです。

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について