訓読 >>>
誰(た)れそこのわが屋戸(やど)来(き)喚(よ)ぶたらちねの母にころはえ物思(ものも)ふわれを
要旨 >>>
誰なんですか? この家に来て私の名前を呼ぶのは。たった今お母さんに叱られて、物思いにふけっているというのに。
鑑賞 >>>
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。「たらちねの」は「母」の枕詞。「ころはえ」は、大声で叱られて。娘が男と今夜逢おうと母に打ち明けたものの、「あんな男はやめときなさい!」と叱られ、ちょうどその時、タイミング悪くその男がやって来たのでしょうか。この時代の日本は厳密な意味での「母系社会」ではなかったというものの、母親の地位は高く、とくに娘の結婚に母親が口出しし、婿選びをするなど、結婚決定権は父親ではなく母親にあったようです。これらの歌のほかにも、母親が娘の交際相手を管理し、時には恋の障害となる歌が数多く見られます。
相聞歌の表現方法
『万葉集』における相聞歌の表現方法にはある程度の違いがあり、便宜的に3種類の分類がなされています。すなわち「正述心緒」「譬喩歌」「寄物陳思」の3種類の別で、このほかに男女の問と答の一対からなる「問答歌」があります。
正述心緒
「正(ただ)に心緒(おもひ)を述ぶる」、つまり何かに喩えたり託したりせず、直接に恋心を表白する方法。詩の六義(りくぎ)のうち、賦に相当します。
譬喩歌
物のみの表現に終始して、主題である恋心を背後に隠す方法。平安時代以後この分類名がみられなくなったのは、譬喩的表現が一般化したためとされます。
寄物陳思
「物に寄せて思ひを陳(の)ぶる」、すなわち「正述心緒」と「譬喩歌」の中間にあって、物に託しながら恋の思いを訴える形の歌。