大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

垂姫の浦を漕ぐ舟・・・巻第18-4048,4051

訓読 >>>

4048
垂姫(たるひめ)の浦を漕ぐ舟(ふね)楫間(かぢま)にも奈良の我家(わぎへ)を忘れて思へや

4051
多祜(たこ)の崎(さき)木(こ)の暗茂(くれしげ)に霍公鳥(ほととぎす)来(き)鳴き響(とよ)めばはだ恋ひめやも

 

要旨 >>>

〈4048〉垂姫の浦を漕ぐ舟の、楫をほんのひと引きする合間にさえも、奈良の我が家を忘れることがあろうか。

〈4051〉多祜の崎の木陰の茂みに、ホトトギスが来て鳴き立ててくれたら、こうもひどく恋しがることはないのに。

 

鑑賞 >>>

 大伴家持の歌。天平20年(748年)3月、春の出挙が終わって後に、都から左大臣橘諸兄の特使として田辺福麻呂(たなべのさきまろ)が訪れました。橘諸兄はこの時すでに従一位左大臣の位にあり、福麻呂は左大臣家に出向し、家事を兼任していたとされます。来訪した福麻呂は、23日に家持の館でもてなしを受け(巻第18-4032~4036)、26日の久米広縄(くめのひろつな)の館での集いに至るまで、家持らと連日にわたって交歓の場をもっています。福麻呂が越中国の家持を訪ねた目的ははっきりしていませんが、①橘氏の墾田地の獲得、②『 万葉集』の編集、③中央の政治情勢の報告などの説が唱えられています。

 ここの歌は、3月25日、水海(みずうみ)に着いて遊覧したときに、思いを述べて作った歌です。「垂姫の浦」は、富山県氷見市南方にあった布勢の水海。4048の上2句は「楫間」を導く序詞。「楫間」は、櫓を漕ぐ合間。「思へや」の「や」は反語。4051の「多祜」は、布勢の水海に面した地。「木の暗茂」は、木が茂って暗いところ。「はだ」は、ひどく、たいそう。この時期は、家持が国守として赴任してきて、すでに4年になろうとしていました。