訓読 >>>
1757
草枕 旅の憂(うれ)へを 慰(なぐさ)もる 事もありやと 筑波嶺(つくはね)に 登りて見れば 尾花(をばな)散る 師付(しつく)の田居(たゐ)に 雁(かり)がねも 寒く来(き)鳴きぬ 新治(にひばり)の 鳥羽(とば)の淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の 良(よ)けくを見れば 長き日(け)に 思ひ積み来(こ)し 憂へは止(や)みぬ
1758
筑波嶺(つくはね)の裾廻(すそみ)の田井(たゐ)に秋田刈る妹がり遣(や)らむ黄葉(もみち)手折らな
要旨 >>>
〈1757〉旅の憂いを慰めるよすがもあるかと思い、筑波嶺を登って眺めると、すすきの散った師付の田んぼに、雁が飛んで来て寒々と鳴いている。新治の鳥羽の湖も見えて、秋風に白波が立っている。そんなすばらしい景色を観ていたら、何日もの長旅で積もりに積っていた憂いも消えていた。
〈1758〉筑波山の裾まわりの田んぼの実った稲を刈ろう。そして、あの娘にあげたい黄葉を手折っておこう。
鑑賞 >>>
高橋虫麻呂の「筑波山に登る」歌。常陸国に赴任していた虫麻呂は、国庁から眺めることのできる筑波山を慕い、この歌はあるとき自ら登って作った歌です。1757の「草枕」は「旅」の枕詞。「尾花」は、ススキの花穂。「師付」は、筑波山東麓の地。「田居」は、田んぼ。「新治」は、筑波山北西にあった地名。「鳥羽の淡海」は、かつて茨城県下妻市から筑西市にかけてあった沼。1758の「裾廻」は、山の麓のあたり。「秋田」は、秋に稲の実った田。「妹がり」は、妹の許に。「手折らな」の「な」は、自身に対しての希望の意志。
藤原宇合と虫麻呂の関係
宇合の下僚だった虫麻呂の歌作は、宇合の職歴とすべて対応しており、宇合が常陸国に赴任した養老3年(719年)7月から、節度使に任命された天平4年(732年)8月までの間に全部収まります。虫麻呂は宇合と共にあることで、作歌活動が保証され実現したのであり、そのための各地の取材も可能だったはずです。宇合という人は虫麻呂からみれば、虫麻呂のよき理解者であり促進者であったことが窺えます。ただ、宇合が持節大将軍・西海道節度使・太宰帥といった遠隔地に赴く役職にある時は、属官となって現地に随行・近侍していませんから、歌作もありません。
そういうわけで、宇合の存在と宇合との出会いが、歌人虫麻呂の誕生をもたらしたと言えます。虫麻呂が純粋に個人的叙情を表現した作はわずかしかなく、他はすべて宇合との官人的なつながりの営為のなかで制作されています。それらの幾つかの歌から、宇合に対する感謝の念と、官人としての上下関係を超えた親密感が滲み出ていると感じられます。