大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

秋の田の穂田を雁がね・・・巻第8-1539~1540

訓読 >>>

1539
秋の田の穂田(ほた)を雁(かり)がね闇(くら)けくに夜(よ)のほどろにも鳴き渡るかも

1540
今朝(けさ)の朝明(あさけ)雁(かり)が音(ね)寒く聞きしなへ野辺(のへ)の浅茅(あさぢ)ぞ色づきにける

 

要旨 >>>

〈1539〉穂の出た秋の田を、雁がまだ夜の明けきらない暗いなかを鳴き渡っていくよ。

〈1540〉今朝の明け方、雁の鳴く声が寒々と聞えたが、それと時を同じくして野辺の浅茅は色づいたことだ。

 

鑑賞 >>>

 聖武天皇の御製歌。1539の「穂田」は、稲が実って穂となった田。「秋の田の穂田を」は、穂田を刈りの意で、同音の「雁」を導く序詞。「雁がね」は雁で、「刈り」と「雁」を掛けています。雁は秋に北方から飛来して、秋の到来を告げる渡り鳥。「闇けく」は「暗し」のク語法で名詞形。「夜のほどろ」は、夜の闇が白み始めるころ。「ほどろ」は「はだら・はだく・ほどく」などと同根の語。夜の帳が少し開いたころ、空を鳴き渡る雁に、晩秋の感懐を催した歌です。

 1540の「朝明」は朝明けの約で、明け方、早朝。「雁が音」は、雁の声。「聞きしなへ」の「なへ」は、とともに、と同時に。「浅茅」は、丈の低い茅(ちがや)。「ける」は「ぞ」の係り結びの連体形で、気づき、発見の意。夜明け時分、寒々とした雁の鳴く声によって秋の気配の深まりが意識され、それが色づいた浅茅の発見に結びついています。窪田空穂は、「上の作とともに、詩情の豊かな、気品ある御製である」と評しています。

 

御製歌・・・『万葉集』で天皇の詠まれた歌は「御製歌」と記されていますが、漢文風に「ごせいか」と訓まれたか、あるいは国風に「おおみうた」と訓まれたかは、はっきりしていません。題詞は漢文で書かれており、当時の文章はすべて漢文であったため、漢文風の訓みが存在し得た一方、『古事記』では、天皇の歌を「大御歌(おおみうた)」と呼んでいるからです。

 

 

 

聖武天皇の略年譜

701年 文武天皇の第一皇子として生まれる
707年 文武天皇崩御、祖母の元明天皇が中継ぎとして即位
714年 立太子される
715年 伯母の元正天皇が中継ぎの中継ぎとして即位
724年 元正天皇から譲位され、天皇に即位
729年 長屋王の変光明子が非皇族として初めて立后される
737年 天然痘が大流行、藤原四兄弟が死去
740年 藤原広嗣の乱恭仁京へ遷都
741年 国分寺建立の詔
743年 墾田永年私財法を制定
743年 東大寺盧舎那仏の造立の詔
744年 難波宮へ遷都
745年 平城京に還都
749年 阿倍内親王孝謙天皇)に譲位
752年 東大寺盧舎那仏の開眼法要
756年 崩御(享年56)

「御製歌」について

 天皇の詠まれた歌は「御製歌」と記されていますが、漢文風に「ごせいか」と訓まれたか、あるいは国風に「おおみうた」と訓まれたかは、はっきりしていません。題詞は漢文で書かれており、当時の文章はすべて漢文であったため、漢文風の訓みが存在し得た一方、『古事記』では、天皇の歌を「大御歌(おおみうた)」と呼んでいるからです。

『万葉集』掲載歌の索引

各巻の概要