大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

草枕旅行く君を愛しみ・・・巻第4-566~567

訓読 >>>

566
草枕(くさまくら)旅行く君を愛(うるは)しみたぐひてぞ来(こ)し志賀(しか)の浜辺を

567
周防(すは)なる岩国山(いはくにやま)を越えむ日は手向(たむ)けよくせよ荒(あら)しその道

 

要旨 >>>

〈566〉都に向かって旅立つあなた方が懐かしいので、つい、志賀島の浜辺まで寄り添って来てしまいました。

〈567〉周防の国の岩国山を越えていく日には、峠の神に心を込めてお供え物をしてください。険しくて危険な道ですから。

 

鑑賞 >>>

 題詞に「大宰大監(だざいのだいげん)大伴宿禰百代ら、駅使(はゆまづかひ)に贈る歌2首」とあり、566が大宰大監大宰府の3等官)大伴百代(おおとものももよ)の歌、567が小典(同4等官)山口忌寸若麻呂(やまぐちのいみきわかまろ)の歌です。「駅使」は、駅馬で都から大宰府に馳せ参じた使いのこと。

 左注にこれらの歌の作歌事情の説明があり、それによると、天平2年(730年)の夏6月、大宰帥大伴旅人卿の足に、にわかに腫れ物ができて病の床に苦しんだ。そこで朝廷に急使を派遣して伝え、腹違いの弟の稲公(いなぎみ)と甥の胡麻(こまろ)に遺言したいと願い出た。そこで朝廷は二人に勅命を下し、駅馬の許可を与えて出発させ、旅人卿の看病をおさせになった。すると数十日が過ぎて幸運にも平癒した。稲公らは、旅人卿の病がすっかり治ったというので、 大宰府を発って都に上ることにした。大伴宿祢百代、山口忌寸若麻呂と旅人の子の家持らは、皆で駅使を見送ることにし、一緒に夷守(ひなもり)の駅家(うまや)に着き、わずかながら酒宴を開いて別れを悲しみ、これらの歌を作った。

 566の「草枕」は「旅」の枕詞。「たぐひて」は、寄り添って。「志賀の浜辺」は、博多湾志賀島へ通じる浜道。567の「周防」は、山口県東南部の地域。「岩国山」は、岩国市西方の欽明路峠か。「手向け」は、神に幣を奉ること。なお、左注にある「夷守」は、所在未詳。ここに同道した家持はこの時13歳で、旅人の名代として駅使を見送ったようです。当時の急使は、平城京大宰府の間を4、5日で走ったといわれます。

 

 

大宰府について

 7世紀後半に設置された大宰府は、九州(筑前筑後豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の9か国と壱岐対馬の2島)の内政を総管するとともに、軍事・外交を主任務とし、貿易も管理しました。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれました。府には防人司・主船司・蔵司・税司・厨司・薬司や政所・兵馬所・公文所・貢物所などの機構が設置されました。

 府の官職は、は太宰帥(長官)、太宰大弐・太宰少弐(次官)、太宰大監・太宰少監(判官)、太宰大典・太宰少典(主典)の4等官以下からなっていました。太宰帥は、従三位相当官、大納言・中納言級の政府高官が兼ねるものとされていましたが、9世紀以後は、太宰帥には親王が任じられれる慣習となり、遙任(現地には赴任せず、在京のまま収入を受け取る)となり、権帥が長官(最高責任者)として赴任し、府を統括しました。なお、菅原道真の場合は左遷で、役職は名目なもので実権は剥奪されていました。