大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

聖徳太子による「行路死人歌」・・・巻第3-415

訓読 >>>

家にあらば妹(いも)が手まかむ草枕(くさまくら)旅に臥(こ)やせるこの旅人(たびと)あはれ

 

要旨 >>>

家にいたなら、妻の腕を枕としているであろうに、草を枕の旅路に倒れて亡くなったこの旅人が哀れである。

 

鑑賞 >>>

 推古天皇の摂政として活躍した聖徳太子は、生後4ヶ月で言葉を話し、同時に10人の話を聞き分けたという伝説があります。万葉時代にはすでに伝説上の人物だったとみえ、「小墾田宮で天下をお治めになった天皇の時代」の皇子との注記があり、天皇については「豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)天皇なり。諱(いみな)は額田、諡(おくりな)は推古」と記されています。

 歌は、聖徳太子による「行路死人歌」です。「行路死人歌」というのは、旅先で飢えて倒れた、または不慮の災難に遭った死人を悼んで歌った歌です。旅する人は、素性の知れない異人でもあったから、たとえ人里近くで難事に遭っても、たやすく援助を受けられなかったのでしょう。野ざらしとなった死者は、「死」そのものが「けがれ」だったために、村落の人々にとっても同じ道を旅行く人々にとっても、恐れの対象となったのです。ですから、行路死人歌は、異郷の土くれとなっても魂が荒ぶることのないよう、鎮魂の祈りを込めて歌われています。

 聖徳太子が「竹原(たかはら)の井:大阪府柏原市青谷」にお出かけになったときに、竜田山で死人を見て歌ったというこの歌は、聖徳太子という「聖(ひじり)」をうたい手の始原とすることから、鎮魂歌としての正統性が確立されたといえます。歌自体は特段の技巧もなく、行き倒れた旅人に対して、実際にかけた言葉をそのまま詠ったようになっています。なお『日本書紀』には次のような説話が記されています。

 ――推古天皇二十一年の十二月、皇太子厩戸皇子聖徳太子のこと)が片岡に遊行した時、道のほとりに痩せ衰えた男が倒れていた。姓名を尋ねても、答えない。皇子は男に食べ物を与え、上衣を脱いで着せてやり、「安らかに寝ておれ」と言って立ち去った。翌日、皇子は近習に男の様子を見に行かせた。近習が戻ってきて言うには、「すでに死んでおりました」。皇子は大いに悲しみ、男をその場に埋葬するよう命じた。数日後、皇子は近習の者を召して、「先日、道に倒れていた者は、ただ者ではあるまい。きっと聖(ひじり)に違いない」と言って、墓を見に行かせた。戻ってきた近習は、「墓はそのままでした。ところが棺を開けてみましたところ、屍(しかばね)は無くなっておりました。ただ棺の上に衣服だけが畳んで置いてありました」と告げた。皇子はその上衣を持って来させると、何ごともなかったようにまた身に着けた。世間の人々はこれをたいへん不思議に感じ、「聖(ひじり)は聖を知るというが、本当だったのだ」と言って、ますます皇子を畏敬したという。――

 聖徳太子が遊行したという片岡は、今の奈良県北葛城郡王寺町のあたりであり、この片岡飢人伝説は、『日本書紀』をはじめ後の世まで多くの書物に登場します。また、この歌と同種の歌が『日本書紀』には、「級(しな)照る 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人あはれ 親無しに 汝(なれ)成りけめや 君はや無き 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ」としるされています。そちらは「お前は親無くして生まれてきたのではないのに、主君はいないのか」という嘆きであるのに対し、万葉集では、亡くなった旅人の妻に思いを寄せる歌になっています。

 なお、片岡の地にある達磨寺には、聖徳太子が出会った旅人は禅宗の開祖・達磨大師だったという伝説があり、本堂の下から発見された墓は、そのとき聖徳太子が埋葬した墓であると言われています。

 

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