訓読 >>>
3846
法師(ほふし)らが鬚(ひげ)の剃り杭(くひ)馬つなぎいたくな引きそ法師(ほふし)半(なから)かむ
3847
壇越(だにをち)やしかもな言ひそ里長(さとをさ)が課役(えだち)徴(はた)らば汝(な)も泣かむ
要旨 >>>
〈3846〉法師がそり残した杭のような髭に馬を繋いでも、ひどく引っぱるな、法師が半分になってしまうから。
〈3847〉檀家衆や、そんなことひどいことを言いなさんな。里長が課役をなしにきたら、あんたがたも泣きべそをかく身だから。
鑑賞 >>>
3846は、檀家の者がたわむれて法師(僧侶)をからかった歌、3847は、法師が答えた歌。当時の一人前の男は髭をたくわえていましたが、僧は俗人と区別するために髭を剃っていました。この僧は、剃り残しの髭がずいぶん見苦しかったと見えます。ここでの「鬚」は、耳のあたりの無精鬚。「剃り杭」は、剃った鬚の伸びたのが杭を打ち並べたように見える譬え。結句の原文「僧半甘」を「法師は泣かむ」と訓む説が定説のようですが、斎藤茂吉は、それでは諧謔歌(かいぎゃくか)としては平凡でつまらないとして「法師半かむ」と訓み「半分になってしまうだろう」と解釈しています。
からかわれた法師も黙ってはいません。3847の「壇越」は、檀家の人々。「な言ひそ」の「な~そ」は、禁止。「里長」は、村長。「課役」は、労役。「徴らば」の「徴る」は、徴求する、無理に取り立てること。50戸を里とし、里ごとに里長を置いて課役(労役)を司っていました。法師には課役の義務がなかったので、このように言って檀家たちをおどしています。この応酬はどちらが勝ったのか分かりませんが、このようなやり取りが『万葉集』に記録されているのが面白いところです。
なお、奈良朝の時代は仏教の隆盛期だったにもかかわらず、『万葉集』には仏教に関係する歌はあまり見られません。この歌からは、農民階級における仏教の位置や農民と法師との関係性を窺い知ることができ、宗教としての仏教はあくまで上層階級のもので、下層にはそれほど深く浸透しなかったと見えます。
巻第16について
巻第16は、「由縁(ゆゑよし)有る雑歌」との題目があり、いわれのあるさまざまな歌が収められています。題詞や左注に作歌事情や縁起が記されており、また格式・形式にとらわれない愉快な歌が多くあります。
かの正岡子規は、万葉集の巻第16について。次のように述べています。
万葉20巻のうち、最初の2、3巻がよく特色を表し、秀歌に富めることは認めるが、ただ、万葉崇拝者が第16巻を忘れがちであることには不満である。寧ろその一事をもって万葉の趣味を解しているのか否かを疑わざるを得ない。第16巻は主として異様な、他に例の少ない歌を集めており、その滑稽、材料の複雑さ等に特色がある。しかし、その調子は万葉を通じて同じであり、いかに趣向に相違があるとしても、それらはまごうことなき万葉の歌である。
そして、はるか千年前の歌にこのような歌が存在したことを人々に紹介し、万葉集の中にこの一巻があることを広く知らしめたい、と。
正岡子規による「巻第16」評
巻第16は、巻第15までの分類に収めきれなかった歌を集めた付録的な巻とされ、伝説的な歌やこっけいな歌などを集めています。しかし、かの正岡子規は、この巻第16について、次のように述べています。
万葉20巻のうち、最初の2、3巻がよく特色を表し、秀歌に富めることは認めるが、ただ、万葉崇拝者が万葉の歌の「簡浄、荘重、高古、真面目」を尊ぶばかりで、第16巻を忘れがちであることには不満である。寧ろその一事をもって万葉の趣味を解しているのか否かを疑わざるを得ない。第16巻は主として異様な、他に例の少ない歌を集めており、その滑稽、材料の複雑さ等に特色がある。
それら滑稽のおもむきは文学的な美の一つに数えられるものであり、その笑いを軽んじたり、嫌ったりすべきでない。その調子は万葉を通じて同じであり、いかに趣向に相違があるとしても、まごうことなき万葉の歌である。そうした歌が、はるか千年前に存在したことを人々に紹介し、万葉集の中にこの一巻があることを広く知らしめたい。「歌を作る者は万葉を見ざるべからず。万葉を読む者は第16巻を読むことを忘れるべからず」。