大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

過労自殺した部下を悼む・・・巻第3-443~445

訓読 >>>

443
天雲(あまぐも)の 向伏(むかぶ)す国の ますらをと 言はるる人は 天皇(すめろき)の 神の御門(みかど)に 外(と)の重(へ)に 立ち候(さもら)ひ 内(うち)の重(へ)に 仕(つか)へ奉(まつ)りて 玉葛(たまかづら) いや遠長(とほなが)く 祖(おや)の名も 継ぎ行くものと 母父(おもちち)に 妻に子どもに 語らひて 立ちにし日より たらちねの 母の命(みこと)は 斎瓮(いわひへ)を 前に据(す)ゑ置きて 片手には 木綿(ゆふ)取り持ち 片手には 和栲(にきたへ)奉(まつ)り 平(たひら)けく ま幸(さき)くませと 天地(あめつち)の 神を乞(こ)ひ禱(の)み いかにあらむ 年月日(としつきひ)にか つつじ花 にほへる君が にほ鳥(どり)の なづさひ来(こ)むと 立ちて居(ゐ)て 待ちけむ人は 大君(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み おしてる 難波(なには)の国に あらたまの 年 経(ふ)るまでに 白たへの 衣(ころも)も干(ほ)さず 朝夕(あさよひ)に ありつる君は いかさまに 思ひいませか うつせみの 惜(を)しきこの世を 露霜(つゆしも)の 置きて去(い)にけむ 時にあらずして

444
昨日(きのふ)こそ君はありしか思はぬに浜松(はままつ)の上(うへ)に雲にたなびく

445
何時(いつ)しかと待つらむ妹(いも)に玉梓(たまづさ)の言(こと)だに告(つ)げず去(い)にし君かも

 

要旨 >>>

〈443〉はるか彼方の国の士と言われる人は、天皇の神々しい宮あって、宮門の外に立って警護を司り、内にあっては天皇のおそば近くに仕え奉る。末永く、親代々の名を継いでいくべきと、母父や妻、子供を説き伏せて、国元を旅立ってきて以来、母上はお祀り用の壺を前に置いて祈られたに相違ない。片手には木綿を捧げ持ち、もう一方の手には和栲(白くやわらかい布)を捧げ持ち、「どうか平安に、無事でいてほしい」と天地の神々に祈られたろう。 幾年月を経たいつの日にか、つつじ花のように晴れがましい君が、難渋しつつも帰って来るだろうと、いても立ってもいられない気持で待っていたであろうに。君は天皇の仰せに従い、難波の国で年が代わるまで衣を洗うこともできず、朝も晩も忙しく任務に励んでいた。しかし君はどう思ったのか、名残も尽きないこの世を露霜のように去っていってしまったのか、まだ死ぬべき時でもないのに。

〈444〉昨日まで、君は生きてこの世にいたのに、思いもかけず今はもう浜の松の上に雲となってたなびいているとは。

〈445〉いつか帰ってくるのだろうと待っている妻に、言伝(ことづて)もせずに死んでしまったのか、君は。

 

鑑賞 >>>

 天平元年(729年)、判官(四等官の第3位の官)として摂津国で「班田」の事務を取り仕切っていた大伴三中が、史生(ししょう:下級の事務官)の丈部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)が自死したのを悼んで作った長歌反歌2首です。

 この年、律令国家による大規模な「班田」が実施されました。班田は、公地公民制に基づき、国家が人民の年齢や資格に応じて耕作地(口分田)を分配し、耕作権を保障した上で徴税する仕組みです。6年ごとに耕作人たちの実態を調査し、耕作地をいったん取り上げて再分配されました。この時の班田には、葛城王(後の橘諸兄)や笠金村もその任にあたっており、まさに官人総動員体制で行われた大事業でしたが、荘園の所有者や耕作人たちの抵抗が大きく、新たな土地の確保に苦労するなど、その任務は過酷を極めたといいます。

 そんななか、最前線で、衣服を洗濯をする時間もないほど働きづめに働いていた丈部龍麻呂が、突然、首をくくって自死してしまったのです。まさに過労自殺だったとみられます。大伴三中は、部下だった無名の事務官の死をひどく悼み、この歌を作りました。丈部龍麻呂の出身については、歌中に「母父(おもちち」とあり、この言い方は東国の山間部に多かったことから、その地方の豪族の子弟だったのではないかといわれています。下級官僚とはいえ従者も一人付き、地方出身としては出世頭だったはずです。

 三中がこの歌で訴えようとしたのは、亡くなった部下に対する哀悼だけではなかったかもしれません。同時に三中自身が抱く不安や不満をも訴えようとしており、天皇に任命された職務とはいえ、班田事業の現場がいかに過酷で荒廃し、誇りを失うべきものであるかを、一人の若者の死を通して告発しようとしたのかもしれません。

 443の「玉葛」「たらちねの」「つつじ花」「にほ鳥の」「おしてる」「あらたまの」「白たへの」「うつせみの」「露霜の」は枕詞。「外の重に立ち候ひ内の重に仕へ奉りて」は、はじめ衛士として仕え、やがて評価されて書記官に抜擢されたことの表現。「斎瓮」は、神に供える酒を入れる器。「木綿」は、神を祭る時に奉る糸。「和栲」は、神を祭る時に奉る布。「なづさひ」は、水に浸かって、難渋して。444の「思はぬに」は、思いがけず。445の「玉梓の」は枕詞。

 

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