大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

行路死人への鎮魂歌・・・巻第9-1800

訓読 >>>

小垣内(をかきつ)の 麻(あさ)を引き干し 妹(いも)なねが 作り着せけむ 白栲(しろたへ)の 紐(ひも)をも解かず 一重(ひとへ)結(ゆ)ふ 帯(おび)を三重(みへ)結ひ 苦しきに 仕へ奉(まつ)りて 今だにも 国に罷(まか)りて 父母(ちちはは)も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 畏(かしこ)きや 神の御坂(みさか)に 和妙(にきたへ)の 衣(ころも)寒らに ぬばたまの 髪は乱れて 国問へど 国をも告(の)らず 家(いへ)問へど 家をも言はず ますらをの 行きのまにまに ここに臥(こ)やせる

 

要旨 >>>

垣の内の庭の麻を引いては干し、妻が作って着せたのであろう白い服、その紐も解かぬまま、一重の帯が今では三重に巻けるほど痩せ細ってしまった身。辛さに耐えて、大君に仕え奉ってきた任務が終わり、いっときも早く、国に帰って父母に会い、妻にも逢おうと帰路についたであろう君。遠い東の国の恐れ多い神の峠にさしかかって、やわらかな着物も寒々として、髪はばらばらに乱れたまま。国はどこかと尋ねても答えず、家はどこかと聞いても答えない。その士たる君は、今ここに行き倒れになって横たわっている。

 

鑑賞 >>>

 題詞に「足柄の坂を過るに、死人(しにひと)を見て作る」とあり、行路死人、すなわち行き倒れて亡くなった人に対する鎮魂歌です。

 「足柄の坂」は、駿河と相模の国境の箱根山の北の足柄峠。「小垣内」の「小」は、接頭語。垣の内。「妹なね」の「なね」は、女性の肉親に対する愛称。「一重結ふ帯を三重結ひ」は、ひどく瘦せ衰えてしまったことを言う慣用句。「仕へ奉りて」は、公に奉仕して。「鶏が鳴く」は「東」の枕詞。「和妙」は、柔らかい繊維の布。「寒ら」の「ら」は、形容詞の語幹に付いて名詞化する接尾語。「ぬばたまの」は「髪」の枕詞。

 作者の田辺福麻呂(たなべのさきまろ)は『万葉集』末期の官吏で、天平 20年 (748年) に橘諸兄の使いとして越中国におもむき、国守の大伴家持らと遊宴し作歌しています。そのほか恭仁京難波京を往来しての作歌や、東国での作もあります。柿本人麻呂山部赤人の流れを継承するいわゆる「宮廷歌人」的な立場にあったかとされていますが、橘諸兄の勢力退潮と呼応するかのように福麻呂の宮廷歌は見られなくなっています。

 この歌のような、旅の途中で死人を見つけて詠んだ「行路死人歌」とされる歌が、『万葉集』には21首あります。それらから、当時は、旅の途中で屍を目にする状況が頻繁にあり、さらに道中で屍を見つけたら、鎮魂のために歌を歌う習慣があったことが窺えます。諸国から賦役のため上京した者が故郷に帰る際に飢え死にするケースが多かったとみられています。

 『日本書紀』には、人が道端で亡くなると、道端の家の者が、死者の同行者に対して財物を要求するため、同行していた死者を放置することが多くあったことが記されています。また、養老律令に所収される『令義解』賦役令には、役に就いていた者が死んだら、その土地の国司が棺を作って道辺に埋めて仮に安置せよと定められており、さらに『続日本紀』によれば、そうした者があれば埋葬し、姓名を記録して故郷に知らせよとされていたことが分かります。こうした行路死人が少なくなかったことは律令国家の闇ともいうべき状況で、大きな社会問題とされていました。 

 

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