訓読 >>>
今日(けふ)よりは返り見なくて大君(おほきみ)の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ我(わ)れは
要旨 >>>
今日からは、もう決して後を振り返ることなく、大君の醜の御盾として出立するのだ、私は。
鑑賞 >>>
大伴家持が収集したとされる「防人の歌」には、作者名が記されているものがかなりあります。おかげで、私たちは当時の庶民の名前を窺い知ることができます。この歌は、下野国の防人、火長(かちょう)の今奉部与曾布(いままつりべのよそふ)という人が作った歌です。火長というのは、兵士10人の集団の長のことです。
「醜の御盾」の「醜」は、自分を卑下する語。自分自身を天皇の盾に見立てています。歌の内容は出征する男たちの心を奮い立たせるもので、そんな風に自身の心に暗示を与え、強くふるまったのでしょう。戦時中の日本においても、多く愛誦されたといいます。しかし、こういう勇ましく強い歌は少数派であり、家持はむしろ、人間の弱さといいますか、真情の流露である歌を尊重し、積極的に採録してくれました。それらの歌を通して、私たちは、当時の人たちの生の声を直接聞いているかのように感じることができます。
「軍防令」による兵役義務
大宝令における「軍防令」の規定では、正丁(21歳から60歳までの男子)は3人に1人の割合で兵役につくものと定められていました。
兵士たちは各国に置かれた軍団に入り、その人員は普通1000人で、約1か月の訓練を受けました。租、庸、調、雑、徭などの課税のほかに、この兵役は農民にとって苦しいものでしたが、それでも、これは国元でのことであり、もっと辛い役割がありました。
それは遠い都に遣られる衛士と、さらに遠方の九州につかわされる防人です。衛士は、天皇の護衛隊のことで、五衛府に属して宮門の整備や雑役に当り、任期は1年。防人の任期は3年でした。
兵士の全員が衛士や防人になったわけではなく、中央政府から提供を命じられた国司が、正丁の中から該当者を選抜しました。ただ、任命の対象から外された者もあり、父子、兄弟の間から既に兵士が出ている者、父母が高齢だったり病気だったりした者のほか、その家に当該者以外の成年男子がいない場合などでした。
また、3年という任期は、あくまで任地に着いてからの計算であり、出立して任地に着くまでの何か月かは含まれませんでした。