訓読 >>>
かくのみにありけるものを猪名川(ゐながは)の奥(おき)を深めて我(あ)が思(おも)へりける
要旨 >>>
こんなにやつれ果てているとも知らず、猪名川の深い川底のように、心の底深く私はそなたのことを思い続けていた。
鑑賞 >>>
序詞に次のような説明があります。
むかし男がいた。結婚早々まだそれほど時が経っていないときに、突然、駅使として遠い国に遣わされることになった。役所の仕事なので自由がなく、いつ逢えるかわからない。妻は深い悲しみに心を痛め、とうとう病の床に臥してしまった。年を重ね、男が帰って来て役所に報告を終え、家に着いて顔を合わせると、妻の容姿はやつれて変わり果てていた。むせび泣いて声も出ない。男は嘆き悲しんで涙を流し、歌を作って口ずさんだ。その歌一首。
「駅使」というのは、駅馬を利用して情報伝達を行う使者のことです。「猪名川」は兵庫県東部を流れる川で、ここでは「奥」の枕詞として使われています。夫の出張先は播磨の国だったのでしょうか。そして、帰ってきた夫の歌を、横になりながら聞いた妻は、枕から頭をあげて次の返歌をしました。
ぬばたまの黒髪濡れて沫雪(あわゆき)の降るにや来ます幾許(ここだ)恋ふれば
季節は雪の降る寒い冬だったとみえます。「ぬばたまの」は「黒髪」の枕詞。「沫雪」は泡のようにやわらかく消えやすい雪。妻は「黒髪を濡らし、泡雪の降る寒い中をお帰りになったのですか、私がこんなにもお慕い申していたので」と言っています。