大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

水死者を見て詠んだ歌・・・巻第13-3336~3338

訓読 >>>

3336
鳥が音(ね)の 神島(かしま)の海に 高山(たかやま)を 隔(へだ)てになして 沖つ藻(も)を 枕(まくら)になし 蛾羽(ひむしは)の 衣(きぬ)だに着ずに いさなとり 海の浜辺(はまへ)に うらもなく 臥(ふ)したる人は 母父(おもちち)に 愛子(まなご)にかあらむ 若草の 妻かありけむ 思(おも)ほしき 言伝(ことつ)てむやと 家(いへ)問へば 家をも告(の)らず 名を問へど 名だにも告(の)らず 泣く子なす 言(こと)だに問はず 思へども 悲しきものは 世の中にぞある 世の中にぞある

3337
母父(おもちち)も妻も子どもも高々(たかたか)に来(こ)むと待ちけむ人の悲しさ

3338
あしひきの山路(やまぢ)は行かむ風吹けば波の塞(ささ)ふる海路(うみぢ)は行かじ

 

要旨 >>>

〈3336〉鳥の鳴き声のように波がざわめく神島の海に、高い山を壁代わりにし、沖に浮かぶ藻を枕代わりにして、蛾の羽の薄い着物もまとわず、この浜辺に何の感情もなく横たわっている人。この人は母や父にとっては愛しい子だろう、かわいい妻もいたのあるだろう。何か言づけもあるだろうと思い、家を訊ねたが家も告げず、名を問うてもそれさえ言わない。まるで駄々っ子のように返事もしない。思えば思うほど、悲しくてならないのは、この人の世である、この人の世である。

〈3337〉母も父も、また妻も子供も、今に来るだろう、今に来るだろうと待ち望んでいたに違いない人だろうに、この人のこんな姿が悲しくてならない。

〈3338〉私は徒歩で山道を行こう。風が吹くと波にさえぎられる海路は行くまい。

 

鑑賞 >>>

 海岸で水死者を見て詠んだ、作者未詳の挽歌です。3336の「鳥が音の」「いさなとり」「若草の」「泣く子なす」は、それぞれ「神島」「海」「妻」「言」の枕詞。「神島の海」は所在未詳。「うらもなく」は、何の感情もなく。3337の「高々に」は爪先立って待ち望むさま。3338の「あしひきの」は「山」の枕詞。「塞ふる」はさえぎる、妨げる。

 3336・3337では死者とその家族に思いを寄せているのに対し、3338では自らの恐怖を述べて、死者の悲しみを表現しています。

 この水死者がどういう事情で亡くなったのかは分かりませんが、たとえば調庸(ちょうよう)を都まで運ぶ農民たちの苦労は並大抵ではありませんでした。徒歩での行程はもちろんのこと、都に着いてからも待たされました。納税物が規準に合っているか、数量が合っているかなどの検査を受け、それが終わらなければ帰ることができません。日数がかさめば、用意しておいた食糧も足らなくなります。そうして帰路に飢え死にする者が出てきます。しかし、埋めてやる人はいません。見かねた政府は、沿道に食糧販売の場所を設け、また、道には実が食べられるような果樹を植えよと命じましたが、どれほどの効果があったか疑問です。

 

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行路死人歌

 旅の途中で死人を見つけて詠んだ「行路死人歌」とされる歌が、『万葉集』には21首あります。それらから、この時代、旅の途中で屍を目にする状況が頻繁にあり、さらに道中で屍を見つけたら、鎮魂のために歌を歌う習慣があったことが窺えます。

 諸国から賦役のため上京した者が故郷に帰る際に飢え死にするケースが多かったようです。『日本書紀』には、人が道端で亡くなると、道端の家の者が、死者の同行者に対して財物を要求するため、同行していた死者を放置することが多くあったことが記されています。

 また、養老律令に所収される『令義解』賦役令には、役に就いていた者が死んだら、その土地の国司が棺を作って道辺に埋めて仮に安置せよと定められており、さらに『続日本紀』によれば、そうした者があれば埋葬し、姓名を記録して故郷に知らせよとされていたことが分かります。

 こうした行路死人が少なくなかったことは律令国家の闇ともいうべき状況で、大きな社会問題とされていたようです。