大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

勝間田の池は我れ知る・・・巻第16-3835

訓読 >>>

勝間田(かつまた)の池は我(わ)れ知る蓮(はちす)なししか言ふ君が鬚(ひげ)なきごとし

 

要旨 >>>

勝間田の池は私はよく知っておりますが、蓮(はす)はありません。蓮があるとおっしゃるあなたに髭がないのと同じです。

 

鑑賞 >>>

 左注に次のような説明があります。人が聞いて言うには、新田部親王が、都の中にお出ましになり、勝間田の池をご覧になって深く感動なさった。その池から戻っても、喜びを隠しておけなかった。そこで、傍らの婦人に語って言うには、「今日遊びに出て、勝間田の池を見ると、水の影は波に揺れ動き、蓮の花が盛りとばかりに咲いていた。その素晴らしさは腸(はらわた)を断つばかりで、とても言葉にできないほどだった」。すると婦人が、この戯れの歌を作って口ずさんだという。

 「新田部親王」は天武天皇の皇子。「勝間田の池」は所在未詳ながら、唐招提寺薬師寺近傍にあった池とされます。「婦人」は親王の寵愛を受けていた愛人とみられ、当時の一人前の男が当たり前に蓄えている髭が親王にないのをからかっています。さらに「蓮(れん)」には同音の「恋」が掛けられており、「蓮なし」には「私への愛情が近ごろはめっきり薄いではありませんか」との、媚態とも訴えともとれる意味が込められています。親王の身体的欠陥をあげつらった悪口の歌ではありますが、親王は苦笑するより他なかったかもしれません。

 しかしながら、悪口の歌であるにせよ、こうした高度な文芸的表現を織り交ぜて社交の具としても用いられている歌からは、天平期の爛熟した宮廷文化が大いに窺えるところです。