大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

筑紫で妻を亡くし、都に戻った大伴旅人が作った歌・・・巻第3-451~453

訓読 >>>

451
人もなき空しき家は草枕(くさまくら)旅にまさりて苦しくありけり

452
妹として二人作りしわが山斎(しま)は木高く繁くなりにけるかも

453
我妹子(わぎもこ)が植ゑし梅の木見るごとに心(こころ)咽(む)せつつ涙し流る

 

要旨 >>>

〈451〉妻のいない空しい我が家は、異郷筑紫にあった時より辛く苦しいものだ。

〈452〉大宰府から京にたどり着いた。亡くなった妻と二人で作り上げたわが家の庭は、木がずいぶん高くなってしまった。

〈453〉我が妻が、庭に植えた梅の木を見るたび、胸が一杯になって涙にむせんでしまう。

 

鑑賞 >>>

 妻を亡くして帰京した作者が、わが家に帰り着いて作った歌。1首目で家を歌い、2首目で庭全体を歌い、3首目ではその中で妻が植えた梅の木をクローズアップして歌っています。451の「草枕」は「旅」の枕詞。旅人は大宰府を出発する前に「都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし」(440)と詠んでおり、それがまさに現実になったという嘆きの歌です。452の「山斎」は、池や築山などのある庭。「木高く繁く」は、庭木が伸びて荒れているさま。都を出て4年ぶりに見た我が家の庭ですが、一緒に協力して作った妻はもういません。

 453について、旅人が大宰府を発ったのが12月、陸路で1か月近く要しましたから、京に着いたのは1月に入ってのこと。かつて妻が好んで植えた、あるいは梅を愛した旅人のために妻が植えてくれた梅の木は、すでに蕾を膨らませつつあったのかもしれません。植えた人は世を去ったのに、植えられた木はもうすぐ花を咲かせようとしている。その対照に、なおいっそう悲しみがこみあげています。「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」(巻第3-446)の歌から連続する8首ですが、旅人の亡妻挽歌はこの歌をもって終わります。

 そして正月27日、叙位が行われ、旅人は正三位から従二位へと昇進します。67歳にして人臣第一の地位に昇り詰めたことになり、父安麻呂の生前の正三位大納言を越えるものです。しかし、当時はすでに藤原四兄弟が政治的結束を固めつつあった時期であり、旅人は長老として祭り上げられたのみで、政治の動きを左右する力は持ち合わせていませんでした。自身はそこまで昇り詰めても素直に喜べるものではなかったはずです。なぜなら、それはあくまで花道として用意された位階・官職であり、それが継承され進展する条件は何もなく、大伴氏の将来にはむしろ暗澹たるものがあったからです。

 そして、帰京してわずか数か月の後に病の床に臥すことになり、天平3年(731年)秋7月に、67歳で亡くなりました。

 

大伴旅人の略年譜

710年 元明天皇の朝賀に際し、左将軍として朱雀大路を行進
711年 正五位上から従四位下
715年 従四位上中務卿
718年 中納言
719年 正四位下
720年 征隼人持説節大将軍として隼人の反乱の鎮圧にあたる
720年 藤原不比等が死去
721年 従三位
724年 聖武天皇の即位に伴い正三位
727年 妻の大伴郎女を伴い、太宰帥として筑紫に赴任
728年 妻の大伴郎女が死去
729年 長屋王の変(2月)
729年 光明子立后
729年 藤原房前に琴を献上(10月)
730年 旅人邸で梅花宴(1月)
730年 大納言に任じられて帰京(12月)
731年 従二位(1月)
731年 死去、享年67(7月)