大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

昔こそ難波田舎と言はれけめ・・・巻第3-312

訓読 >>>

昔こそ難波田舎(なにはゐなか)と言はれけめ今は都(みやこ)引き都(にやこ)びにけり

 

要旨 >>>

昔こそは、難波田舎と呼ばれていたであろう。しかし、今では都を引き移してすっかり都らしくなってきた。

 

鑑賞 >>>

 神亀3年(726年)、藤原宇合(ふじわらのうまかい)が、難波の都の改造のため、知造難波宮事に任ぜらたときに作った歌。大体ができあがった時期に、聖武天皇の御前で歌った予祝歌とされます。「言はれけめ」の「けめ」は「こそ」の結びで、過去推量。「都引き」は都を引き移しての意で、天皇行幸を、都自体が移ってきたかのように言っています。「都び」は都めく意。自身の責務の完了を目前にして喜ぶだけでなく、皇威を賀した、調べの明るいさわやかな歌となっています。

 藤原宇合不比等の3男で、藤原4家の一つ式家の始祖にあたります。若いころは「馬養」という名前でしたが、「宇合」の字に改めています。霊亀3年(717年)に遣唐副使として多治比県守 (たじひのあがたもり) らと渡唐。帰国後、常陸守を経て、征夷持節大使として陸奥蝦夷 (えみし) 征討に従事、のち畿内副惣管、西海道節度使となり、大宰帥 (だざいのそち) を兼ねましたが、天平9年(737年)、都で大流行した疫病にかかり44歳で没しました。『万葉集』には6首の歌が載っています。

 宇合は、上記のように、遣唐使の一員として唐に渡ったほか、国内のあちこちを旅から旅へと飛び回り、さまざまな仕事に携わっています。ここの知造難波宮事の仕事もその一つに過ぎず、生涯を通して、大和にいた期間は短かったとみられます。藤原四兄弟の中で最もよく働いた人であり、またいちばん損な籤(くじ)を引いた人だったようにも感じられます。