訓読 >>>
967
倭道(やまとぢ)の吉備(きび)の児島(こじま)を過ぎて行かば筑紫(つくし)の児島(こじま)思ほえむかも
968
大夫(ますらを)と思へる吾(われ)や水茎(みづくき)の水城(みづき)のうへに涕(なみだ)拭(のご)はむ
要旨 >>>
〈967〉大和路の吉備の児島を過ぎる時には、きっと筑紫の児島を思い出すことだろう。
〈968〉立派な男子だと思っているこの私が、お前との別れに、水城の上で涙を拭うとは・・・。
鑑賞 >>>
大伴旅人が、帰京のため大宰府を発つ際に、遊行女婦、児島が詠んだ2首の送別歌(965・966)に答えて作った歌です。こちらの歌も同様に、送別の宴席で詠まれた気配があります。967の「吉備の児島」は、備前国児島郡で、今は倉敷市に編入されている児島のこと。地名と人名を重ね合わせて、女への惜別の情と旅愁とをうまく溶け合わせて表現しています。968の「大夫」は、勇気のある立派な男子。「水茎の」は、音の類似性から「水城」にかけた枕詞。
968について窪田空穂は、「この歌は言外にじつに深い味わいをもっている。それはこの歌の調べで、豊かに清らかで、旅人その人の全幅を思わせるものがある。思うにこの際の旅人の心は、単に児島に限られたものではなく、大宰府在任期間の感がおのずからに綜合されてきて、それが、この歌に流れ込み、こうした調べをなしたのではないかと思われる。旅人の作を通じても代表的な一首である」と述べています。
また、これらの歌のやり取りについて、斎藤茂吉は、「当時の人々は遊行女婦というものを軽蔑せず、真面目にその作歌を受取り、万葉集はそれを大家と共に並べ載せているのは、まことに心にくいばかりの態度である」と述べています。旅人と児島との私的な関係を云々する見方もないではないのですが、ここの旅人は、国の高官として、身分の上下や職業の貴賤などにいっさいかかわらずすべての民草を天皇の「おほみたから」であるとする根幹の形にのっとり、その気持ちや思いをしっかりと受けとめているのです。