大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

夕されば小倉の山に伏す鹿の・・・巻第9-1664

訓読 >>>

夕されば小倉(をぐら)の山に伏(ふ)す鹿の今夜(こよひ)は鳴かず寝(い)ねにけらしも

 

要旨 >>>

夕暮れになると小倉の山に伏す鹿は、今夜は鳴かずに寝てしまったようだ。

 

鑑賞 >>>

 巻第9の冒頭におかれた雄略天皇の御製歌ですが、舒明天皇を作者とする説もあります。「小倉の山」の所在には様々な説があり、一説には桜井市の今井谷あたりといわれています。

 万葉時代の人々は、他のいくつかの歌を検証すれば、妻を求めて鹿は鳴くと理解していたことが分かります。とすれば、鹿が鳴かないのを歌ったこの歌は、ああ、妻が見つかって共寝をしているんだろう、よかったね、結婚相手が見つかって、という歌になります。

 『万葉集』の編纂者は、各巻の冒頭にどの歌をもってくるかに配慮したあとが窺えます。巻第1の1番の歌も雄略天皇御製歌で、巻第9の冒頭にも雄略天皇の歌を置いています。国土を統一した英雄だからという理由からかもしれませんが、鳴かない鹿の鳴き声を歌って鹿への優しい愛情を示したこの歌を選んだことに、編纂者の格別な思いが感じられるところです。

 なお、巻第8に、岡本天皇の御製歌として「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも」(1511)という同じような歌があります。岡本天皇舒明天皇またはその皇后でもあった斉明天皇をさし、何らかの因縁でこれらの混同が生じたようです。

 

雄略天皇と赤猪子の物語

 『古事記』の雄略天皇の巻に、次のようなエピソードが載っています。

 長谷朝倉宮(はつせのあさくらのみや)で天下を治めていた雄略天皇は、あるとき三輪山のふもと、美和河(みわがわ)のほとりで洗濯をしている少女に出会います。見目麗しいその少女を、天皇は一目で気に入り「おまえは誰の子か」と尋ねると、少女は恥ずかしそうに「私は引田部の赤猪子(あかいこ)と申します」と答えました。天皇は「おまえは誰にも嫁がずにいなさい。そのうち私が宮中に召すから」と言って、宮に帰っていきました。

 その後、赤猪子は天皇の言葉を信じてお召しを待ちました。しかし、何の音沙汰もないまま、5年、10年、20年、さらに80年もの年月が過ぎてしまいました。若かった体もすっかり痩せ縮まって、顔も見るかげもありません。彼女は、せめて、今日まで待ち続けた誠意だけでも天皇に打ち明けたいと思い、意を決して宮中へ参内します。天皇は彼女のことなどすっかり忘れており、「お前はどこの婆さんだ、何の用で来たのか」と追い返そうとします。

 その薄情な言葉に、赤猪子はすべてを語ります。若かりし日の出逢い、夢のような天皇のお言葉。そして、信じて待ち続けた、気の遠くなるような長い年月を。事情を聞いた天皇はひどく驚かれ、赤猪子を不憫に思って歌と品物を贈ったということです。