大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

天武天皇崩御後に皇后(持統天皇)が作った歌・・・巻第2-160~161

訓読 >>>

160
燃ゆる火も取りて包みて袋(ふくろ)には入ると言はずやも智男雲

161
北山(きたやま)にたなびく雲の青雲(あをくも)の星(ほし)離(はな)れ行き月を離れて

 

要旨 >>>

〈160〉燃える火さえも、包んで袋に入れることができるというではないか。智男雲。

〈161〉北山にたなびいていた雲のその青雲が、星から離れて行き、月からも離れて行く。

 

鑑賞 >>>

 題詞に「或る本に、天皇崩御した時の、太上天皇持統天皇の御製歌2首」とある歌です。「太上天皇」は文武天皇の御代の称なので、そのころに記録された書にあるままをここに載せたものとみられます。実際は、天武天皇崩御の後、やや日が経過しての歌とみられます。160の上4句について、当時このような方術があったのだろうとされています。「智男雲」は、訓義未詳。161の「北山」は、北の方の山の意で、明日香北端の香具山か。「青雲」を天武天皇に譬え、「星」「月」を皇后や皇子たちに譬えています。

 161の歌について、作家の大嶽洋子は次のように評しています。「この歌には不思議な宇宙感と臨場感が感じ取られる。やや青みを帯びて微光をもつ雲の印象は、天皇の魂を包むものとしての存在感がある。月や星のひかりの届かぬ闇の中へと去っていくありさまには、身を切るような惜別の思いは薄い。むしろ、どこかはるかかなたへと移っていくものを、感動を込めて見守っている様子がひしひしと感じとれる」

 生前の天武天皇は、日本で初めての占星台(天文台と占い兼ねる場所)を建設するなど、天文暦法の習得にも熱心だったといいます。天の川を詠んだ「七夕歌」を別にすれば、星を詠んだ歌はさほど多くない中にあって、皇后があえて星を詠み込んでいるのは、亡き夫へならではの思いがあったのかもしれません。

 なお、作家の小名木善行氏は、これらの歌に別の解釈を示しています。まず160については、「袋」は原文では「福路」とあることや、「智男雲」は前の語と合わせて「八面智男雲(やもちのをくも)」であることなどを指摘し、「神々に捧げるための火を宝物をつつむように大切に祭壇に置きました。貴方の御魂が通るであろう庭先の路にも、清らかな水を捧げましょう。今はもう何も申し上げることはございません。貴方はどの方向から見ても智者であられた」。また161についても、原文の「向南山」を「北山」と訓むなら、「に」の「尓」がないのはおかしいので「なこうやま」と訓み「北を枕にし南を向いて安置されたご遺体」であるとして、「北枕でご安置された天武天皇の涙のご遺体、空に浮かぶ羊雲のように連なった参列の人々、高い徳をお持ちだった天武天皇は、夜を照らす光となって離れ去られました。歳月もまた過ぎ去りました」と解釈しています。