大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

織女の五百機立てて織る布の・・・巻第10-2034~2036

訓読 >>>

2034
織女(たなばた)の五百機(いほはた)立てて織(お)る布の秋さり衣(ごろも)誰(た)れか取り見む

2035
年にありて今か巻くらむぬばたまの夜霧隠(よぎりごも)れる遠妻(とほづま)の手を

2036
我(あ)が待ちし秋は来(きた)りぬ妹(いも)と我(あ)れと何事あれぞ紐(ひも)解かずあらむ

 

要旨 >>>

〈2034〉織姫がたくさんの機(はた)を立てて織る布、その布で縫う秋の衣は、誰が着るのだろうか。

〈2035〉一年ぶりに今ごろは、腕を枕に寝ているだろうか、夜霧に隠れて、遠方にいた妻の腕を。

〈2036〉私が待ちに待った秋がついにやってきた。わが妻と私は、何事があろうとも紐を解かずにおくものか。

 

鑑賞 >>>

 七夕(しちせき)の歌。宮廷詩宴に集った下級官人らによる歌だろうといわれます。2034の「織女の五百機立てて」は、良い布を織るために奮闘しているようす。「機」は、布を織る機具または布に織るようにした糸。「秋さり衣」は、秋になると着る衣。「取り見む」は、手に取ってみるで、着る意。2035の「年にありて」は、一年目の意。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。2036の「何事あれぞ」は、何事があっても。

 もとは中国の伝説である七夕が日本に伝来した時期は定かではありませんが、七夕の宴が正史に現れるのは天平6年(734年)で、「天皇相撲の戯(わざ)を観(み)る。是の夕、南苑に徒御(いでま)し、文人に命じて七夕の詩を腑せしむ」(『続日本紀』)が初見です。ただし『万葉集』の「天の川安の河原・・・」(巻10-2033)の左注に「この歌一首は庚辰の年に作れり」とあり、この「庚辰の年」は天武天皇9年(680年)・天平12年のいずれかで、前者とすれば、天武朝に七夕歌をつくる風習があったことになります。七夕の宴の前には天覧相撲が行われました。

 『万葉集』中、七夕伝説を詠むことが明らかな歌はおよそ130首あり、それらは、人麻呂歌集、巻第10の作者未詳歌、山上憶良大伴家持の4つの歌群に集中しています。その範囲は限定的ともいえ、もっぱら宮廷や貴族の七夕宴などの特定の場でのみ歌われたようです。七夕伝説は、当時まだ一般化していなかったと見えます。

 なお、元の中国の七夕伝説は次のようなものです。昔、天の川の東に天帝の娘の織女がいた。織女は毎日、機織りに励んでいて、天帝はそれを褒め讃え、川の西にいる牽牛に嫁がせた。ところが、織女は機織りをすっかり怠けるようになってしまった。怒った天帝は織女を連れ戻し、牽牛とは年に一度だけ、七月七日の夜に天の川を渡って逢うことを許した。

 ところが日本では牽牛と織女の立場が逆転し、牽牛が天の川を渡り、織女が待つ身となっています。なぜそうなったかについて、民俗学の立場から次のように説明されています。「かつて日本には、村落に来訪する神の嫁になる処女(おとめ)が、水辺の棚作りの建物の中で神の衣服を織るという習俗があった。この処女を『棚機つ女(たなばたつめ)』といい、そのイメージが織女に重なったため、織女は待つ女になった。また、当時の日本の結婚が「妻問い婚」という形をとっていたためだと考えられている」。