大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

倭姫大后の歌・・・巻第2-153

訓読 >>>

鯨魚(いさな)取り 近江(あふみ)の海を 沖 放(さ)けて 漕ぎ来る船 辺(へ)付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂(かい) いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ

 

要旨 >>>

 鯨を取るような大きな近江の海、その沖遠くから漕ぎ来る船よ、岸近くに漕ぎ来る船よ、沖船の櫂よ、ひどく波を立てないで、岸船の櫂よ、ひどく波を立てないで、夫がいとしんだ水鳥が飛び立ってしまうではないか。

 

鑑賞 >>>

 夫、天智天皇の死後、「殯(もがり)」の期間に倭姫(やまとひめ)大后が作った挽歌です。まだ墓も定まっていない時期で、琵琶湖上をひろく展望し、沖からこなたへ向かって来る船、岸寄りをこなたへ向かって来る船の、その来るがままに、水面に浮かんでいる鳥の驚いて飛び立とうとするさまを詠い、生前の天皇が御覧になられたであろう水鳥に思いを馳せています。また当時は、鳥は霊魂を運ぶものと考えられていました。「鯨魚取り」は「近江の海」の枕詞、「若草の」は「夫」の枕詞。

 なお、天皇崩御してから墓に葬られるまでの間に一定期間もうけられた「殯(もがり)」の儀礼が、何を目的にしていたのかについては諸説あり、魂を体に戻すため、霊魂の浄化を行うため、荒ぶる魂を鎮めるためなどの説がありますが、いずれも定説にはなっていません。

 天智天皇の病と死について、『日本書紀』に簡単な記事はあるものの、葬送についての詳しい記事は載っていません。壬申の乱に勝利した天武天皇の意向がはたらいたものとみられています。一方で『万葉集』には、病気が重篤になり、亡くなって葬儀が終わるまでの推移をたどる9首の歌が収められています。『万葉集』の編纂時までこれらの歌が伝えられた経緯が興味深いところです。