訓読 >>>
鯨魚(いさな)取り 近江(あふみ)の海を 沖 放(さ)けて 漕ぎ来る船 辺(へ)付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂(かい) いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ
要旨 >>>
鯨を取るような大きな近江の海、その沖遠くから漕ぎ来る船よ、岸近くに漕ぎ来る船よ、沖船の櫂よ、ひどく波を立てないで、岸船の櫂よ、ひどく波を立てないで、夫がいとしんだ水鳥が飛び立ってしまうではないか。
鑑賞 >>>
夫、天智天皇の死後、「殯(もがり)」の期間に倭姫(やまとひめ)大后が作った挽歌です。まだ墓も定まっていない時期で、琵琶湖上をひろく展望し、沖からこなたへ向かって来る船、岸寄りをこなたへ向かって来る船の、その来るがままに、水面に浮かんでいる鳥の驚いて飛び立とうとするさまを詠い、生前の天皇が御覧になられたであろう水鳥に思いを馳せています。また当時は、鳥は霊魂を運ぶものと考えられていました。「鯨魚取り」は「近江の海」の枕詞。淡水湖である近江の海(琵琶湖)に鯨がいたわけはありませんが、琵琶湖も海と同じに見られていましたから、このような表現になっています。「沖放けて」の「放けて」は、離れること。「沖つ櫂」の「つ」は「の」の意の格助詞。「櫂」は舟を漕ぐ道具。「いたくな撥ねそ」の「な~そ」は禁止。「若草の」は「夫」の枕詞。
窪田空穂はこの歌について、「眼前の湖水を、『鯨魚取り近江の海を』と、客観的に、荘重に言い起こされ、続く二句対二回の畳用は、あくまで事象に即して、しかも感覚的の細かさを交へ、結末、『若草の夫の思ふ鳥立つ』と、太后以外の者にはいうを許されない親愛の情を、余情をもって言いおさめられて、一首を渾然としたものにしているところ、長歌の方面にも手腕の秀でていられたことを示すものである」と評しています。
なお、天皇が崩御してから墓に葬られるまでの間に一定期間もうけられた「殯(もがり)」の儀礼が、何を目的にしていたのかについては諸説あり、魂を体に戻すため、霊魂の浄化を行うため、荒ぶる魂を鎮めるためなどの説がありますが、いずれも定説にはなっていません。
天智天皇の病と死について、『日本書紀』に簡単な記事はあるものの、葬送についての詳しい記事は載っていません。壬申の乱に勝利した天武天皇の意向がはたらいたものとみられています。一方で『万葉集』には、病気が重篤になり、亡くなって葬儀が終わるまでの推移をたどる9首の歌が収められています。『万葉集』の編纂時までこれらの歌が伝えられた経緯が興味深いところです。
645年 中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)
叔父の孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子に
異母兄の古人大兄皇子を謀反の疑いで自害に追い込む
646年 孝徳天皇が難波に遷都
改新の詔
653年 孝徳天皇を置き去りにし、群臣らを率いて大和に戻る
654年 孝徳天皇が崩御、母の斉明天皇(皇極)が重祚して即位
658年 有間皇子を謀反の罪で処刑(有間皇子の変)
660年 百済が滅亡
661年 百済救援に派兵しようとするも、筑紫で斉明天皇が崩御
663年 白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗
667年 近江大津宮に遷都
668年 天智天皇として即位し、弟の大海人皇子が東宮となる(1月)
668年 蒲生野で、宮廷をあげての薬狩りが行われる(5月)
669年 中臣鎌足が死去、前日に藤原姓を与える(10月)
670年 日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成
671年 大友皇子を太政大臣に任命(1月)
671年 発病(9月)
671年 大海人皇子を病床に呼び寄せる(10月)
大海人皇子はその日のうちに出家、吉野に下る
大友皇子を皇太子とする
672年 崩御(1月)