訓読 >>>
861
松浦川(まつらがは)川の瀬(せ)速(はや)み紅(くれなゐ)の裳(も)の裾(すそ)濡れて鮎か釣るらむ
862
人(ひと)皆(みな)の見らむ松浦(まつら)の玉島を見ずてや我(わ)れは恋ひつつ居(を)らむ
863
松浦川(まつらがは)玉島の浦に若鮎(わかゆ)釣る妹(いも)らを見らむ人のともしさ
要旨 >>>
〈861〉松浦川の川瀬の流れが速いので、娘たちは紅の裳裾を濡らしながら、今ごろ鮎を釣っていることだろう。
〈862〉だれもが皆見ているであろう松浦の玉島なのに、一人見ることもかなわず、私はこんなにも恋し続けていなければならないのか。
〈863〉松浦川の玉島の岸で若鮎釣っている娘たち、その美しい娘たちをを見ているであろう人々が羨ましい。
鑑賞 >>>
題詞に「後の人の追和する歌三首 師老」とあります。「帥老」というのは、大宰帥大伴旅人を尊んでいう語で、序文から860までの歌が回り持ちで詠まれた後、再び旅人が詠んで後人追和の形にしたものとみられています。
861の「川の瀬速み」は、川の浅瀬の流れが速いので。「鮎か釣るらむ」の「か」は疑問、「らむ」は現在推量の助動詞。862の「見らむ」は、現在推量。「見ずてや」の「や」は、疑問の係助詞。863の「ともしさ」は、羨ましいことよ。
なお、松浦川にまつわる伝説が『古事記』に載っており、神功皇后が玉島川で裳の糸を抜いて、飯粒を餌に鮎を釣ったとあり、また『日本書紀』には、新羅国を攻めるにあたり、神功皇后が占いをして吉兆の鮎を手に入れた、という話が書かれています。そこから、春になると松浦川の女性たちが鮎を釣るようになったといわれています。
ここまでの11首の歌で構成された物語について、窪田空穂は次のように述べています。「玉島川の四月の若鮎釣の神事は、序では触れていないが、日本書紀によると、旅人時代には行なわれていたことが知られる。神事であるから良家の娘も無論加わっており、また当然礼装もしていて、その土地としては見る眼美しいものであったろうと想像される。管下を巡視する職分を負ってその地に行った旅人が、その光栄に接して甚しく心を引かれたことは想像しやすい。平生愛好している神仙趣味から迎えて見て、それを仙女の群れかと訝かったとしてもさして突飛なことでもない。その中の目立つ一人を『貴人(うまびと)の子』と見て、訝りの心からその家や名を問うということは、その時の彼の位置としてはありうべきことであり、したのでもあろう。また、問われた娘も、彼の身分に対する畏敬から、躊躇しながらも問に対する答はしたろう。そこまでは多分事実であり、そしてそれが事実の全部であったろう」