訓読 >>>
霰(あられ)降り鹿島(かしま)の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)に我れは来(き)にしを
要旨 >>>
武神であられる鹿島の神に祈りを捧げながら、天皇の兵士として私はやってきたものを。
鑑賞 >>>
常陸国の防人、上丁、大舎人部千文(おおとねりべのちふみ)の歌。「霰降り」は、あられが降って喧(かしま)しいことから、同音の「鹿島」に続く枕詞。「鹿島の神」は、古来、武神として崇められた鹿島神宮。この祭祀をつかさどっていた中臣氏が中央で勢力を得て藤原氏となって以来、藤原氏の氏神となりました。「皇御軍」は、皇軍の兵士。作者は常陸の国府を出立し、その道すがら長久を祈願したのでしょうか。この歌は、かつての大戦中に政府指導で出された「愛国百人一首」に戦意高揚の歌として選ばれ、「我れは来にしを」を「我れは来たものを、何で逡巡などするものか」などと、武人としての強い決意を述べた歌と解されました。しかし、それは牽強付会と言わざるを得ず、前後の歌との関係からも、末尾の句には、無事に帰還できるだろうか、また妻に逢えるだろうかという不安と危惧の気持ちが込められているものと解せられます。
言語学者の犬養孝も、「戦時中には単に”皇軍の意識”ということであおり立て、同じ作者の『筑波嶺のさ百合の花の夜床にもかなしけ妹そ昼もかなしけ』(巻第20-4369)の歌はめめしい私情として伏せられがちだったが、”百合の花の咲くなつかしい筑波山の郷土、そこにおいてきた美しい妻、夜の寝床でもかわいかったあの女(こ)は昼もかわいくてたまらない”と、私に徹する愛情の律動を訴える人であってこそ「われは来にしを」の深い感慨を見るのではなかろうか。同一人の作であることを見すごすことはできない」と述べています。
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