大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

山部赤人が真間の娘子の墓に立ち寄ったときに作った歌・・・巻第3-431~433

訓読 >>>

431
古(いにしえ)に ありけむ人の 倭文機(しつはた)の 帯(おび)解(と)き替へて 伏屋(ふせや)立て 妻問(つまど)ひしけむ 葛飾(かつしか)の 真間(まま)の手児名(てごな)が 奥(おく)つ城(き)を こことは聞けど 真木(まき)の葉や 茂(しげ)りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言(こと)のみも 名のみも我(わ)れは 忘らゆましじ

432
我(わ)も見つ人にも告げむ葛飾(かつしか)の真間(まま)の手児名(てごな)が奥(おく)つ城(き)ところ

433
葛飾(かつしか)の真間(まま)の入江(いりえ)にうち靡く(なび)く玉藻(たまも)刈りけむ手児名(てごな)し思ほゆ

 

要旨 >>>

〈431〉ずっと昔、ある男が、倭文織りの帯を解き交わして、寝屋を建てて共寝をしたという、葛飾の真間の手児名のその墓所はここだと聞くけれど、木の葉が茂っているからだろうか、松の根が伸びるほど長い期間が経ったからだろうか、その墓の跡はわからないが、昔の話だけでも、真間の手児名という名だけでも、私は忘れることができない。

〈432〉私もこの目で見た。人にも語って聞かせよう、葛飾の手児名のこの墓どころを。

〈433〉葛飾の真間の入江で、波に靡く美しい藻を刈り取っていたという手児名のことがしのばれる。

 

鑑賞 >>>

 葛飾の真間(まま)の娘子(おとめ)の墓に立ち寄ったときに、山部赤人が作った歌。「葛飾」は、東京・埼玉・千葉にまたがる江戸川沿岸一帯の地。「真間の手児名」は、市川市真間のあたりにいたという伝説の娘子。後世、男を拒み通した処女とされましたが、この歌にもある通り、すでに男がありました。「倭文機」は、日本古来の単純な模様の織物。「奥つ城」は墓。

 斎藤茂吉は、反歌の432について、「伝説地に来ったという旅情のみでなく、評判の伝説娘子に赤人が深い同情を持って詠んでいる。併し徒いたずらに激しい感動語を以てせずに、淡々といい放って赤人一流の感懐を表現し了せている」と評しています。また、文芸評論家の山本憲吉は、この歌を圧巻としつつ、「手児名の塚を訪ねえたという感動が、直截に波打っていて、ことに『我も見つ、人にも告げむ』と短く言いさした句切れの効果が、最高度に発揮されている」と述べています。