大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

大伴旅人の「酒を讃える歌」・・・巻第3-342ほか

訓読 >>>

342
言はむすべ為(せ)むすべ知らず極(きは)まりて貴(たふと)きものは酒にしあるらし

346
夜(よる)光る玉といふとも酒飲みて心を遣(や)るにあに及(し)かめやも

347
世間(よのなか)の遊びの道に冷(すず)しくは酔(ゑ)ひ泣きするにあるべくあるらし

350
黙然(もだ)居(を)りて賢(さか)しらするは酒飲みて酔(ゑ)ひ泣きするになほ如(し)かずけり

 

要旨 >>>

〈342〉言いようもなく、なすすべもないほどに、無上に貴いものは酒であるらしい。

〈346〉たとえ夜光る玉であっても、酒を飲んで憂さを晴らすことにかなうものはない。

〈347〉世の中のさまざまな風雅の道に心楽しむことができないのなら、酒に酔い泣きするのがよいように思う。

〈350〉黙りこくって分別のある顔をしているのも、酒を飲んで酔い泣きするのにはやはり及ばないことだ。

 

鑑賞 >>>

 「大宰帥大伴旅人卿の酒を讃える歌13首」とあるなかの4首で、旅人65歳の作です。宴席で詠まれた歌とみられ、酒飲みが喜びそうな歌が並んでいます。近世以前は、酒は祝いの日など特別な機会に、大きな杯に注いで大勢で回し飲みして飲み干すものでしたが、旅人は一人で飲むのも好きだったようです。

 342の「酒にし」の「し」は強意。346の「夜光る玉」は、『文選』ほか漢籍に多くみられる「夜光珠」「夜光璧」の訳語。350の「黙然」は名詞で、黙っていること。世間体を繕うのは、酒を飲んで感情を解き放つことに及ばないと言って、締めくくっています。

 斎藤茂吉は、これらの歌について次のように言っています。「一種の思想ともいうべき感懐を詠じているが、いかに旅人はその表現に自在な力量を持っているかが分かる。その内容は支那的であるが、相当に複雑なものを一首一首に応じて毫も苦渋なく、ずばりずばりと表している」

 また、国文学者の窪田空穂は、「この酒を讃むる心は、酒を享楽の対象として、その味わいを愛でるのではなく、酒を憂えを忘れしめる物として、酔泣きを導き出す力を讃めているのである。すなわち必要を充たしうる物としてである。その背後には大いなる悲しみがあったのであるが、旅人自身は直接には一言もそれに触れていず、ただ、暗示にとどめている。・・・・・・これらの歌の背後にある悲しみは、妻の死ではなかったかと思われる。それをほかにしては、これほどに深い悲しみは想像し難いものだからである」

 一方、文芸評論家の山本憲吉は、「13首の連作として面白いとしても、一作一作独立して味わえば、なにか物足りない。概念的な発想が、一首一首の結晶度を弱めたのだろうか。始めから興に乗じて連作として作ったもので、一首一首の完成にさほど力を注いではいないのだ。
 人麻呂・黒人・赤人・笠金村らの詞人たちが、専門の作者であったのに対して、旅人も憶良も、専門家とは言えない。アマチュア詩人なのである。その点でも、一首の修辞の巧みを凝らすといった気持ちは、始めから持っていなかった。歌は、時に応じ、場に応じての、思想・感情の吐露の具であった。ことに旅人・憶良らは、新しい漢学の素養があり、人生的感懐をそのまま歌に詠みこむ傾向があった。この讃酒歌も、酒の讃め歌がいつか老荘思想的な人生観の吐露になっていくのである。その点では、当時の第一級の知識人の試作としての意味を帯びてくる。
 旅人が老荘思想や仏教思想をどの程度に理解していたか、さまで深かったとは思えないが、老荘無為自然の教えから、彼なりに一つの享楽主義的思想を引き出していた。その思想を一つの枠組として、自家製の哲学を歌い上げたと言ってもよい。豪族大伴氏の氏の上として、政府の高官に位置しながら、いつか政争から遠ざかり、政治の場からはみ出して、自分の教養人としての生活をうち立てていたようである。その一端が、この13首の歌にうかがわれる」

 

窪田空穂

 窪田空穂(くぼたうつぼ:本名は窪田通治)は、明治10年6月生まれ、長野県出身の歌人、国文学者。東京専門学校(現早稲田大学)文学科卒業後、新聞・雑誌記者などを経て、早大文学部教授。

 雑誌『文庫』に投稿した短歌によって与謝野鉄幹に認められ、草創期の『明星』に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。また近代歌人としては珍しく、多くの長歌をつくり、長歌を現代的に再生させた。

 『万葉集』『古今集』『新古今集』など古典の評釈でも功績が大きく、数多くの国文学研究書がある。詩歌集に『まひる野』、歌集に『濁れる川』『土を眺めて』など。昭和42年4月没。