大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

東の市の植木の木垂るまで・・・巻第3-310

訓読 >>>

東(ひむがし)の市(いち)の植木(うゑき)の木垂(こだ)るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり

 

要旨 >>>

東の市の並木が成長して垂れ下がるまで、あなたに逢わずにいたのだから、恋しく思うのは当然だ。

 

鑑賞 >>>

 門部王(かどべのおおきみ)の歌。門部王は、長皇子の孫とされますが、敏達天皇の孫である百済王の後裔ともいわれます。神亀のころに「風流侍従」として長田王・佐為王・桜井王ら10余人と共に聖武天皇に仕え、天平11年(739年)に兄の高安王とともに大原真人の氏姓をあたえられました。『 万葉集』には5首の歌を残しています。

 310は「東の市の樹を詠みて作る」歌。「東の市」は、平城京の東西二つにに置かれた市のうちの東の市。「植木」は、道に植える木。「木垂る」は、木が老いた様子のこと。「うべ」は、もっともだ。4年の国守の任期を終え、京に戻って東の市の並木を見て詠んだ歌とされます。

 

 

風流侍従

 聖武朝初期に「風流侍従」とと称せられる人たちが存在していたことが、『藤原武智麻呂伝』に見え、六人部王、長田王、門部王、佐為王、桜井王、石川朝臣君子、阿倍朝臣安麻呂、置始工ら8人の名が記されています。ただし、この「風流侍従」は律令制における正式の官の呼称ではなく、聖武天皇の新宮廷に始まった新しい文化である「風流」をリードしていく役割を担っていたとされます。

 神亀6年(729年)に国家的イベントとして催された朱雀門における歌垣において、門部王、長田王がその頭を務めたとの記録が残っています。さらに「風流侍従」の役割としては、歌舞の整備が推し進められるなかで、地方歌舞を宮廷歌舞に取り込むこともあったのではないかともみられています。