大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

雪こそば春日消ゆらめ・・・巻第9-1782~1783

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1782
雪こそは春日(はるひ)消(き)ゆらめ心さへ消え失(う)せたれや言(こと)も通(かよ)はぬ

1783
松返(まつがへ)りしひてあれやは三栗(みつぐり)の中上(なかのぼ)り来(こ)ぬ麻呂(まろ)といふ奴(やつこ)

 

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〈1782〉雪ならば春の日ざしに消えもしようが、そなたは心まで消え失せてしまったのか、そうでもあるまいに何の便りもない。

〈1783〉たわけ心か、任地へ行ったきり途中で都へ戻っても来ない、麻呂という奴は。

 

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 『柿本人麻呂歌集』に出ている相聞歌です。1782は、春の雪解けのころ、旅にある人麻呂が大和にいる妻に与えた歌、1783は妻が答えた歌。

 1782の「こそ~らめ」は逆接条件。~ならば~だろうが。「たれや」は反語。1783の「松返り」は、鷹狩の語で、鷹は待っていると帰ってくるという意とされます。「しひて」は、心身に問題があって。「三栗の」は「中」の枕詞。「中上り」は、地方官が任期中に報告に上京すること。「奴」は卑しんでいいう称、ここでは親しさからの戯れで言っています。

 この2首は、人麻呂の相聞歌には類を見ないもので、とくに1783の妻の歌は、非常にくだけた言い方をしています。とても気の合った夫婦生活を思わされます。

 

柿本人麻呂歌集』について

 『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が375首あります。『人麻呂歌集』は『万葉集』成立以前の和歌集で、人麻呂が2巻に編集したものとみられています。

 この歌集から『万葉集』に収録された歌は、全部で9つの巻にわたっています(巻第2に1首、巻第3に1首、巻第3に1首、巻第7に56首、巻第9に49首、巻第10に68首、巻第11に163首、巻第12に29首、巻第13に3首、巻第14に5首。中には重複歌あり)。

 ただし、それらの中には女性の歌や明らかに別人の作、伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではないようです。題詞もなく作者名も記されていない歌がほとんどなので、それらのどれが人麻呂自身の歌でどれが違うかのかの区別ができず、おそらく永久に解決できないだろうとされています。

 文学者の中西進氏は、人麻呂はその存命中に歌のノートを持っており、行幸に従った折の自作や他作をメモしたり、土地土地の庶民の歌、また個人的な生活や旅行のなかで詠じたり聞いたりした歌を記録したのだろうと述べています。

白栲の袖の別れを難みして・・・巻第12-3215~3216

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3215
白栲(しろたへ)の袖(そで)の別れを難(かた)みして荒津(あらつ)の浜に宿(やど)りするかも

3216
草枕(くさまくら)旅行く君を荒津(あらつ)まで送りぞ来(き)ぬる飽(あ)き足(だ)らねこそ

 

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〈3215〉このままあの子と袖の別れをする気になれず、荒津の浜でもう一夜、舟を出さずに宿を取ることにした。

〈3216〉遠く旅立って行かれるあなたを見送りに、とうとう荒津までやって来てしまいました。なかなか別れがたくて。

 

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 3215は、旅立つ男の歌、3214はそれに答えた女の歌です。3215の「白栲の」は「袖」の枕詞。「荒津」は福岡市中央区西公園付近にあった港。大宰府の外港で、官船が発着していました。3216の「草枕」は「旅」の枕詞。「飽き足らねこそ」は、とても満足できないので。

 荒津から船出する男は、大宰府の任が解けて帰京する官人であり、再会のあてのない旅立ちだったとみられます。女は誰だかわかりませんが、妻ではなく、大宰府あたりの遊行女婦だったようです。

 

夕されば小倉の山に鳴く鹿は・・・巻第8-1511

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夕されば小倉(をぐら)の山に鳴く鹿は今夜(こよひ)は鳴かずい寝(ね)にけらしも

 

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夕暮れになるといつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない。もう夫婦で寝てしまったのだろう。

 

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 「岡本天皇の御製歌」とあり、飛鳥岡本宮に都を定めた舒明天皇の御製。ただし、天皇の皇后で舒明の死後に即位して皇極天皇となり、さらに重祚して斉明天皇となった女帝も、岡本宮に都したことがあるため、斉明天皇の御製とする説もあります。鹿が鳴くのは、妻を求めているからといわれ、今夜鳴かないのは、きっと妻にめぐり逢えたからだと思いやっています。「夕されば」は、夕暮れになるといつも。「小倉の山」は、奈良県にある山ながら所在未詳で、桜井市多武峰付近の山かとされます。

 なお、巻第9-1664に、雄略天皇の御製歌「ゆふされば小倉の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寝ねにけらしも」が載っており、左注に、類似歌であるがどちらが正しいか審(つまび)らかでないから、塁(かさ)ねて載せたとあります。歌調からすると、少し新しすぎるので、雄略天皇御製ではなく舒明天皇御製とみる説が有力です。また、「臥す鹿の」と「鳴く鹿は」とで、好みも分かれているようで、「鳴く鹿は」「鳴かず」という同音の繰り返しは、声調がややざわついており、「臥す鹿の」の方が、鎮静した気分にはふさわしいとする意見もあります。

 斎藤茂吉は1511のこの歌を評し、御製は調べ高くして潤いがあり、豊かにして弛(たる)まざる、万物を同化包摂したもう親愛の御心の流露であって、「いねにけらしも」の一句はまさに古今無上の結句だと思う、また、第四句で「今夜は鳴かず」と、其処に休止を置いたから、結句は独立句のように、豊かにして逼(せま)らざる重厚なものとなったが、よく読めばおのずから第四句に縷(いと)の如くに続き、また一首全体に響いて、気品の高い、言うに言われぬ歌調になった、と言っています。そして、この歌は万葉集中で最高峰の一つと思う、とも。

 

桜井王と聖武天皇の歌・・・巻第8-1614~1615

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1614
九月(ながつき)のその初雁(はつかり)の使(つかひ)にも思ふ心は聞こえ来(こ)ぬかも

1615
大(おほ)の浦(うら)のその長浜(ながはま)に寄する波ゆたけく君を思ふこのころ

 

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〈1614〉九月にやって来る初雁の使いでなりとも、大君が私を思って下さる心は聞こえてこないものでしょうか。

〈1615〉大の浦のその長浜に打ち寄せる波のように、心ゆったりとあなたのことを思っているこのころです。

 

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 1614は、遠江守の桜井王(さくらいのおおきみ)が聖武天皇に奉った歌、1615は、聖武天皇がお答えになった歌。遠江静岡県西部。琵琶湖を近江とするのに対し、かつて淡水湖だった浜名湖遠江としています。桜井王は、長皇子の孫で、天平3年(731年)従四位下、奈良朝風流侍従の一人です。

 1614は、秋になり、京から何らかの人事発令があるのではと心待ちにしている気持ちを「九月のその初雁の使にも」と言い換えています。おそらく地方官から京の中央官への召し上げを望んでのもので、当時の君臣間の、雅ながらも親密なありようが窺われます。また「初雁の使」は、前漢の蘇武が匈奴に使いして囚われの身となった時、雁の足に文を托して故国に送ったという故事を踏まえています。これに対して天皇の御歌は、言葉少なに含みのある高貴な物言いになっています。

 1614の「ぬかも」は願望。1615の「大の浦」は「遠江国海浜の名なり」との注記があり、静岡県磐田市付近にあった湖とされます。上3句は「ゆたけく」を導く序詞。「ゆたけく」は、ゆったりと。なお、「ゆたけく(原文:寛公)」を「君」にかかる「ゆたけき」と訓んで、ゆったりとしているあなたを、と解釈し、桜井王の風格を愛でたものとする説もあります。しかし、恨み言を言ってきた相手に対し「ゆたけき君」と言うよりは、天皇らしく心ゆったりと思っているとした方がよいように思いますが、いかがでしょう。

 

古人の飲へしめたる吉備の酒・・・巻第4-553~554

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553
天雲(あまくも)のそくへの極(きは)み遠けども心し行けば恋ふるものかも

554
古人(ふるひと)の飲(たま)へしめたる吉備(きび)の酒(さけ)病(や)めばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ

 

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〈553〉あなたのおられる筑紫は、天雲の果ての遥か遠い地ですが、心はどんなに遠くても通って行くので、このようにも恋しいのですね。

〈554〉老人が贈ってくださった吉備のお酒も、悪酔いしてしまったらどうしようもありません。(吐くかもしれないので)貫簀(ぬきす)もいただきたく思います。

 

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 丹生女王(にうのおおきみ)が、大宰府の長官である大伴旅人に贈った歌です。丹生女王は伝未詳ですが、天平11年(739年)に従四位下から従四位上に、天平勝宝2年(750年)に正四位上に昇叙されたことが分かっています。旅人から何らかの事情で吉備の地酒を贈られたのに対し、喜びの心をもって詠んでいます。

 553の「そくへ」は遠く隔たったところの意。554の「古人」は老人または昔馴染みの人の意で、旅人を指しています。「吉備」は現在の岡山県広島県東部で、古来、酒の産地として有名です。「貫簀」は、洗い桶の上に、水が飛ばないように敷く竹で編んだすのこ。ここでは、酔って吐くときの用意のための物として言っています。丹生女王は、旅人を老人と言ったり、「吐くかもしれない」と突拍子もない冗談を言ったりで、旧知の親しい間柄だったようです。

 なお、「貫簀」を竹の敷物とする説もあり、その場合は、「酔って横になる竹の敷物をください」という意味になります。

 

宇治の宮処の仮廬し思ほゆ・・・巻第1-7

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秋の野(ぬ)のみ草刈り葺(ふ)き宿れりし宇治(うぢ)の宮処(みやこ)の仮廬(かりほ)し思ほゆ

 

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かつて天皇行幸に御伴をして、山城の宇治で、秋の草を刈って葺いた行宮(あんぐう)に宿ったときのことが思い出されます。

 

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 作者の額田王(ぬかだのおおきみ:生没年未詳)は、斉明天皇の時代に活躍がみとめられる代表的な女流歌人です。はじめ大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)に召されて、十市皇女(とおちのひめみこ)を生みましたが、後に天智天皇に愛され、近江の大津宮に仕えました。額田王の「王」という呼び名から、皇室の一人とも豪族出身とも取れ、また出身地も近江の鏡山あたりとも大和の額田郷ともいわれます。鏡山が想定されるのは、父の鏡王(かがみのおおきみ)の名が天武即位紀に見えることによります。

 この歌は、皇極天皇の近江への行幸に付き従ったときの思い出の歌で、額田王の処女作とされます。また、このころ大海人皇子に召されて官女になったのではないかともいわれます。そしてこの歌を初夜の作とみる向きもあるようです。「み草」の「み」は接頭語。「宇治の宮処」と表現したのは天皇が宿泊した土地だからとみられます。「仮廬(かりほ)」は「かりいほ」の略で、旅先で泊まるために作った仮小屋のことですが、実際にはそれなり建物だった、あるいは実際に仮廬で一夜を過ごしたわけではなく、旅先での不自由で不安な宿を表す語として用いられたとする見方があります。

 この歌について斉藤茂吉は、「単純素朴のうちに浮かんでくる写像は鮮明で、且つその声調は清潔である。また単純な独詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奥から伝わってくるのをおぼえるのである。この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であった」と述べています。

 

伊勢の国にもあらましを・・・巻第2-163~164

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163
神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましをなにしか来(き)けむ君もあらなくに

164
見まく欲(ほ)り我(あ)がする君もあらなくに何しか来(き)けむ馬(うま)疲(つか)るるに

 

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〈163〉こんなことなら伊勢の国にいたほうがよかったのに、いったい私は何をしに都へ帰ってきたのだろう、あなたももうこの世にいないというのに。

〈164〉会いたくて仕方ないあなたももういないのに、私は何をしに帰ってきたのだろう、馬も疲れるというのに。

 

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 大津皇子(おおつのみこ)の死を知らされた、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が作った歌です。大津皇子天武天皇の御子。大柄で容貌も男らしく人望も厚い人物でした。異母兄である草壁皇子に対抗する皇位継承者とみなされていましたが、686年、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして自死させられます。享年24歳。ただし、謀反の罪で大津とともに逮捕された30余人は、配流された2人を除き、全員が赦免されています。そのため、この逮捕・処刑劇は、草壁の安泰を図ろうとする鸕野皇后(のちの持統天皇)の思惑がからんでいたともいわれます。

 ここの2首は、大津皇子が亡くなり、伊勢神宮にいた大伯皇女(おおくのひめみこ)が斎宮を解任されて都へ戻ってくる時に作った歌です。大津皇子の刑死から約1か月半後のことであり、おそらく、国家の重罪人の肉親であることは穢れた身、ということで大和に戻されたのではないでしょうか。皇女はこの時26歳、都へ帰る理由のないむなしさを歌っており、この上ない悲痛な心中がうかがえます。163の「神風の」は「伊勢」の枕詞。「あらましを」の「まし」は、推量の助動詞。

 163について斉藤茂吉によれば、「『伊勢の国にもあらましを』の句は、皇女真実の御声であったに相違ない。家郷である大和、ことに京に還るのだから喜ばしいはずなのに、この御詞のあるのは、強く読む者の心を打つのである。第三句に、『あらましを』といい、結句に、『あらなくに』とあるのも重くして悲痛である」。斎宮の任を解かれて帰京したのですから、「伊勢の国にもあらましを」ということはあり得ませんが、歌にそう表現するのは自然と見ることができます。

 なお、大津皇子にはすでに山辺皇女(やまのべのひめみこ)という妃がおり、『日本書紀』には、大津の死を知って衝撃を受けた皇女が「髪を振り乱して裸足で走って皇子の許へ行き、殉死した。それを見た者はみな嘆き悲しんだ」と書かれています。まだ20歳を超えたくらいの若さだったとされます。

 

【年表】
672年 壬申の乱
673年 大海人皇子天武天皇として即位
679年 6皇子による「吉野の盟約
681年 草壁皇子を皇太子とする
683年 大津皇子が初めて政を聞く
686年 9月9日、天武天皇崩御
      9月24日、大津皇子の謀反が発覚
     10月3日、大津皇子が処刑される