訓読 >>>
正月(むつき)立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しきを経(へ)め
要旨 >>>
正月になり、新春を迎えたら、こうやって梅を見ながら楽しい一日を過ごしましょう。
鑑賞 >>>
この歌は、天平2年正月13日、大伴旅人の邸宅での宴で詠まれた「梅の歌」32首の最初の歌です。作者の大弐紀卿(だいにきのまえつきみ)は、主人の旅人に次ぐ大宰府次官の紀男人(きのおひと)で、賓客の中では最高位の人です。開宴の冒頭にふさわしく、言祝いで挨拶をしつつ、一同に楽しみ尽くそうと呼びかけています。「かくしこそ」の「かく」は、このように。「し」は強意。「招きつつ」は、客として招いて。梅の花を擬人化した表現。「楽しき終へめ」は、楽しみの限りを尽くそう、の意。この歌のあとに出席者全員による歌が1首ずつ並んでいます。
歌群の前には、漢文で書かれた序文があり、次のような内容です。「天平二年正月十三日に太宰府の帥(そち)・大伴旅人の邸宅で宴を催した。天気がよく、風も和らぎ、梅は白く色づき蘭が香っている。嶺には雲がかかり、松は霞がかかったように見え、山には霧がたちこめ、鳥は霧に迷っている。庭には蝶が舞い、空には雁が帰ってゆく。空を屋根にし、地を座敷にして膝を突き合わせ、酒を酌み交わす。楽しさに言葉も忘れ、着物をゆるめてくつろぎ、好きなように過ごす。梅を詠んで情のありさまを記そう」。
この序文の訓読文の冒頭は、「天平二年の正月の十三日に、帥老(そちらう)の宅に萃(あつ)まりて、宴会(うたげ)を申(の)ぶ。時に、初春の令月(れいげつ)にして、気(き)淑(よ)く風(かぜ)和(やはら)ぐ」となっており、ここから年号の「令和」が引用されました。作者が誰かについては諸説ありますが、山上憶良または大伴旅人であるというのが有力です。あるいは、仮の序をまとめたのは旅人配下の書記官などで、旅人の推敲を受けたとも考えられます。いずれにしても宴の主人である旅人から列席の諸人に呼びかける体裁をとっているので、旅人の作として機能しています。
もっとも、この序文にはさらに典拠があり、中国の詩文集『文選』にある張衡(ちょうこう)という人の『帰田賦(きでんのふ)』や、書家として著名な王羲之(おうぎし)の『蘭亭序(らんていじよ)』の影響があると言われています。『帰田賦』は、田舎で田園が自分を待っている。こんなあくせくした都の宮仕えなんかより、田舎でのびのび暮らした方がずっとよいと言っている詩で、この中に「是(ここ)に仲春の令月、時和し気清む」という文言があります。
また『蘭亭序』は、354年の3月3日に、会稽山(かいけいざん)の北の蘭亭に文人たちが集い、曲水(きょくすい)の宴が催され、そこで詠まれた詩に付された序文です。「梅花の歌」の序文にもこれと似た文言があり、志ある文人たちが集い、理想の宴を開いたというその理念を受け継いだものが、「梅花の歌」が詠まれた宴であろうとされます。さらに、中国からもたらされた梅の花は当時の日本ではまだ珍しかったことから、漢詩の素材である梅花を和歌の世界に取り込もうとする文芸上の試みであったともいわれます。
宴に集まった人々は、帥の大伴旅人をはじめ大弐以下府の官人21名(笠沙弥を含む)、管内諸国からは筑前守山上憶良をはじめ国司等11名、計31名が名を連ねています。これほどの大人数による歌宴は、『万葉集』をはじめ、上代の文献には他に例がありません。
なぜ梅花の宴がもうけられたのか
大宰府で旅人が主催した観梅の宴は、当時でも例のないスケールの大きさです。なぜこのような宴をもうけたのでしょう? 梅がほどよく咲いていたから? どうやらそれだけではないようです。
大宰府は、天皇がいらっしゃる都からはほど遠い北九州にありながら、当時の外交と防衛の最大拠点でした。軍事面では西辺国境や大陸への防衛の要所であり、また、外交面では諸国との交流の玄関口です。その与えられた権限の大きさからも「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれていたほど。
このもっともインターナショナルな環境のなかでよまれた歌は、じつは、中国の楽府(がふ)詩「梅花落(ばいからく)」に学んだものとおもわれます。「梅花落」は、唐の都・長安(ちょうあん)をはるかに離れて辺境に出征していた兵士たちがうたうふるさとを恋う歌や、都に残され夫や恋人を偲ぶ女たちの歌が基調になっています。
旅人たちもまた、辺境の地にある悲しみをわかちあい、こころ晴れるまで雅(みやび)の苑(その)に遊ぼうとしたのでしょう。宴をもよおした旅人の、周囲の官人たちへのやさしいこころづかいがありました。
~『図解雑学楽しくわかる万葉集』/ナツメ社から引用