大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

遣新羅使人の歌(5)・・・巻第15-3589~3590

訓読 >>>

3589
夕(ゆふ)さればひぐらし来(き)鳴く生駒山(いこまやま)越えてぞ我(あ)が来る妹(いも)が目を欲(ほ)り

3590
妹(いも)に逢はずあらばすべなみ岩根(いはね)踏む生駒(いこま)の山を越えてぞ我(あ)が来る

 

要旨 >>>

〈3589〉夕方になるとひぐらしがやって来て鳴く生駒山を越え、私はやってきた。妻の顔が見たくて。

〈3590〉妻に逢わないでいるとどうにもやるせなくて、険しい生駒の山を越え、私は妻のもとにやって来たのだ。

 

鑑賞 >>>

 使節は奈良を出発してから難波津(なにわつ)へ向かい、そこから船で新羅国へ旅立ちました。ただし、海上の天候などによっては、難波津でしばらく足止めされることもありました。ここの歌は、そんな出航待ちをしている合間を縫い、妻に逢うため、はるばる奈良に帰った時の歌です。現代なら「役人がそんなことをして」と責められるところでしょう。左注に、秦間満(はたのはしまろ)の歌とあり、渡来系の人ながら伝未詳。3589の「夕されば」は夕方になると。「生駒山」は、奈良県生駒市大阪府東大阪市の県境にある山。「目を欲り」は、逢いたくて。3590の「すべなみ」は、どうしようもなく辛いので。「石根踏む」の「石根」は岩で、生駒山が険しいことの形容。

 当時の奈良・難波間の交通路は、生駒山脈南部の龍田山(たつたやま)を越える「龍田越え」の道が多く利用され、生駒山を越える道(直越え:ただごえ)は急峻ながら、最短ルートとして使われていたようです。夕暮れの生駒山を越えて行くというのは、少しでも早く愛する妻に逢いたかったためでしょう。おそらく暗峠(くらがりとうげ)を越えたと思われます。

 

遣新羅使について

 巻第15の前半は、天平8年(736年)に新羅国(朝鮮半島南部にあった国)に外交使節として派遣された使人たちの歌が145首収められており、その総題として「遣新羅使人ら、別れを悲しびて贈答し、また海路にして情をいたみ思を陳べ、併せて所に当りて誦ふ古歌」とあります。

 使節団の人数は総勢200人前後だったとみられ、歌が詠まれた場所をたどっていくと、難波を出航後、瀬戸内の各港や九州の能古島対馬などを経て新羅に向かったことがうかがえます。天智7年(668年)から始まった遣新羅使は約3世紀にわたって派遣されましたが、これらの歌が詠まれた時(天平8年:736年)の新羅国と日本の関係は必ずしも良好ではなかったため、使節の目的は果たせなかったばかりか、往路ですでに死者を出し、帰途には大使の阿倍継麻呂(あべのつぎまろ)が病死するなど、払った犠牲に対し成果が得られなかった悲劇的な使節でした。

 この一行には、副使として、大伴家持の同族である大伴御中(おおとものみなか)も加わっており、同人が作った歌も2首含まれています。遣新羅使人らの歌は、御中が記録し、後に家持らに伝わったものとみられています。