大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

ふさ手折り多武の山霧・・・巻第9-1704~1705

訓読 >>>

1704
ふさ手折(たを)り多武(たむ)の山霧(やまぎり)繁(しげ)みかも細川(ほそかは)の瀬に波の騒(さわ)ける

1705
冬こもり春へを恋ひて植ゑし木の実になる時を片待つ吾等(われ)ぞ

 

要旨 >>>

〈1704〉枝を手折ってたくさんためるという、多武に立ちこめた霧が深いためか、ここ細川の瀬の波音が高い。

〈1705〉冬のさなかに、春が来るのを心待ちにして植えた木が、花開いて実になる時を、ただじっと待ち続けている我らであります。

 

鑑賞 >>>

 人皇に献上したとある、『柿本人麻呂歌集』所収の歌。1704の「ふさ手折り」は、ふさふさと手折ってたわむ意で「多武」の枕詞。「多武の山」は、奈良県桜井市南方の多武峰(とうのみね)。「かも」は疑問。窪田空穂は、「捉えていっていることは、多武の山と細川の、その目立った秋霧の状態という、微細なものであるから、これは皇子が目にしていられるものでなくては意味をなさない。皇子の少なくともその日の御座所がその辺りにあって、そこへ伺候した人麿が挨拶代わりに詠んだという関係のものと思われる。・・・感覚の微細に働いた歌である。こうしたことは、そこの状態を見馴れている者でないと興味を感じないことで、二人の間にのみ通じる心である。一首の調べが張っていて、心をこめて詠んだものである点から見て、皇子と人麿の関係が思わせられる」と述べています。

 1705の「冬こもり」は「春」の枕詞。「春へ」は、春のころ。「片待つ」は、ひたすら待つ。この歌について窪田空穂は、「何事かを譬喩的にいっているもので、その本義の何であるかは、皇子と人麿以外にはわからないことである。舎人皇子は皇子の中でも勢力のある人であり、人麿はきわめて身分が低かったらしく、また、『吾』を『吾等』といっているので、代弁者という形である。秋、移植した木の、春、花が咲き実の結ぶのを片待つということは、常識的に考えると、春を定期の叙任の時とし、その時の推挙支持を皇子に乞いたいとの心をほのめかしたものではないかと思われる」と述べています。

 一方、斎藤茂吉は、さまざまな寓意が込められているとしていろいろな解釈を加えようとする向きがあるのに対し、斎藤茂吉は、これだけの自然観照をしているのに寓意寓意というのは鑑賞の邪魔物であると断じています。