大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

な思ひと君は言へども・・・巻第2-140

訓読 >>>

な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我(わ)が恋ひざらむ

 

要旨 >>>

物思いなどするなと、あなたはおっしゃるけれど、今度お逢いできるのが何時と分かっていて、私が恋しく思わずにいられましょうか。

 

鑑賞 >>>

 柿本人麻呂の妻だった依羅娘子(よさみのをとめ)が、人麻呂との別れのときに詠んだ歌で、人麻呂の慰めの言葉に対して詠んだものと分かりますが、131~139の歌に対する返歌かどうかは不明です。この当時の別れは、永遠の別れとなる場合が多く、いったん都へ上がるともう次に帰ってくる約束はできない、有無を言わさず引き裂かれる、そんな時代だったのです。歌にある「な思ひ」の「な」は、禁止の意を表す語。「恋ひざらむ」は、恋いずにいられようか。

 依羅娘子の呼称は、河内国丹比郡依羅郷にちなんでいるとされます。大阪市住吉区庭井には、現在も大依羅神社があり、その一帯が丹比郡依羅郷です。人麻呂は、藤原京から二上山の南側の竹内峠を越えて、娘子のもとに通っていたことになります。しかし、人麻呂が前掲の別れを惜しむ歌を詠んだ時には、娘子は石見にいたはずです。石川は、石見国の鴨山と考えられている地域にある川で、江の川と見る説もあるので、さまざまに混乱が生じています。

 人麻呂が亡くなった地(巻第2-223)でもある「鴨山」が何処かについて、斎藤茂吉は、それまでの諸説を退け、自分のイメージに合う「鴨山」を探そうとしました。223の「岩根しまける」から岩の多い高い山、依羅娘子は石見の女であり国府にいたとすると、そこから近くはない場所のはず、224の「石川の貝」は「峡(かひ)」であり、「石川」は225の「雲立ち渡れ」から、石見の大河の「江の川」に違いない。そのような想像をもとに現地で実地踏査を始めました。苦労の末に、島根県邑智郡粕淵村に「亀」の地を見つけ、「カモ」の音に通じることから、その近くの「津目山」を鴨山と決めました。1934年7月のことで、茂吉は「鴨山考」として発表します。しかし、その6年後に、茂吉はこの説を修正します。近隣の「湯抱(ゆがかい)」の役場の土地台帳に「鴨山」の地名が載っているのを知らされたからです。それにより遂に「鴨山」を確定し、霧が晴れた思いで歌を詠みます。

 人麿のつひのいのちを終はりたる鴨山をしも此処と定めむ

 

人麻呂の妻

 人麻呂の妻が何人いたかについては、2人説から5人説まであり、確かなことは分かっていません。最も多い5人とみた場合は、次のように分類されます(①~④は仮名)。

①軽娘子
 妻が亡くなった後に泣血哀慟して作った長歌(巻第2-207・210・213)でうたわれた妻。
②羽易娘子
 210の長歌に、幼児を残して死んだことうたわれているため、①の軽娘子とは別人の妻だとする。
③第二の羽易娘子
 213の長歌の妻も別人とする。
④石見娘子
 人麻呂が石見国から上京して妻と別れるときに作った長歌(巻第2-131・135・138)でうたわれた妻。
⑤依羅娘子
 巻第2-224・225で、亡くなった人麻呂を思い作った歌の作者。

 このうち、①②③すべてを同一人、②③を同一人、④⑤を同一人とする説など、さまざまあります。