訓読 >>>
1744
埼玉(さきたま)の小埼(をさき)の沼に鴨(かも)ぞ羽(はね)霧(き)る 己(おの)が尾に降り置ける霜を掃(はら)ふとにあらし
1745
三栗(みつぐり)の那賀(なか)に向へる曝井(さらしゐ)の絶えず通はむそこに妻(つま)もが
1746
遠妻(とほづま)し多珂(たか)にありせば知らずとも手綱(たづな)の浜の尋ね来(き)なまし
要旨 >>>
〈1744〉埼玉の小埼の沼で、鴨が羽ばたいてしぶきを飛ばしている。尾に降り置いた霜を払いのけようとしているらしい。
〈1745〉那賀の向かいにある曝井の水が絶え間なく湧くように、絶えず通おう。そこで布を洗う女たちの中に、都の妻がいるかもしれない。
〈1746〉遠く大和にいる妻がここ多珂郡にいるとすれば、たとえ道がわからなくても、私が今いる手綱の浜の名のように、私を訪ねて来てくれるだろうに。
鑑賞 >>>
高橋虫麻呂が常陸国に赴任していた時の作。1744は、旋頭歌形式の歌。「小埼の沼」は、埼玉県行田市の埼玉にあった沼。1745の上3句は「絶えず」を導く序詞。「三栗の」は「那賀」の枕詞。「那賀」は、常陸国那賀郡。「曝井」は、水戸市愛宕町の滝坂の泉とされ、村の女たちが洗濯した布を曝すためにこの名がついたといいます。1746の「手綱の浜」は、茨城県高萩市の海岸。「多珂」は、茨城県にあった郡。1745・1746は、遠い旅先で都の妻が現れるという非現実的なことを空想し、それをひそかに願う心を詠っています。
『万葉集』以前の歌集
■『古歌集』または『古集』
これら2つが同一のものか別のものかは定かではありませんが、『万葉集』巻第2・7・9・10・11の資料とされています。
■『柿本人麻呂歌集』
人麻呂が2巻に編集したものとみられていますが、それらの中には明らかな別人の作や伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではありません。『万葉集』巻第2・3・7・9~14の資料とされています。
■『類聚歌林(るいじゅうかりん)』
山上憶良が編集した全7巻と想定される歌集で、何らかの基準による分類がなされ、『日本書紀』『風土記』その他の文献を使って作歌事情などを考証しています。『万葉集』巻第1・2・9の資料となっています。
■『笠金村歌集』
おおむね金村自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第2・3・6・9の資料となっています。
■『高橋虫麻呂歌集』
おおむね虫麻呂の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第3・8・9の資料となっています。
■『田辺福麻呂歌集』
おおむね福麻呂自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第6・9の資料となっています。
なお、これらの歌集はいずれも散逸しており、現在の私たちが見ることはできません。