大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

防人の歌(35)・・・巻第20-4404

訓読 >>>

難波道(なにはぢ)を行きて来(く)までと我妹子(わぎもこ)が付けし紐(ひも)が緒(を)絶えにけるかも

 

要旨 >>>

難波道を行って帰ってくるまではと、妻が縫い付けてくれた着物の紐が切れてしまった。

 

鑑賞 >>>

 上野国の防人、助丁の上毛野牛甘(かみつけののうしかい)の歌。「難波道を行きて来まで」は、難波へ行く道を通って、またここへ帰って来るまで。切れないだろうと思っていた紐が切れてしまい、何か不吉なことが起きなければいいが、と心配している歌です。

 徴発された防人は、難波津までの道のりを、防人部領使(さきもりのことりづかい)によって引率されますが、部領使は馬や従者を連れていますから、当人は馬に乗り、荷物も従者に持たせています。しかし、防人たちは自ら荷物を抱えての徒歩のみで、夜は寺院などに泊まることができなければ野宿させられました。

 

防人制度の変遷

 防人制度は、大化2年(646年の)の改新の詔にその設置の記載が見えますが、663年の白村江の戦いに敗れたことにより、九州北部の防衛強化のため本格的に整備されたと考えられています。

 その後、天平2年(730年)に防人は一時停止され、737年に筑紫にいた東国の防人を郷里に帰すことが決まり、翌年に約2,000人の防人たちが東国へ戻っています。しかし、巻第20に収集された防人歌は755年のものであるので、これ以前に東国からの徴発が復活していたとみられています。

 防人制度に対する東国の人々の不満はしだいに高まり、天平宝字元年(757年)に東国からの徴発は廃止され、九州からの徴発に変更されました。その後何度かの改廃を経て、防人の徴発は行われなくなり、10世紀には実質的に消滅しました。

 東国人にとって、防人歌に詠われたような九州に旅立つ悲しい別れはなくなったものの、8世紀後半になると、蝦夷との戦乱が激化したため東国から大規模な兵役が強いられるようになり、その負担は9世紀初めまで続きました。防人への徴発がなくなった代わりに、今度は東北制圧のための重い兵役や軍事の負担がのしかかってきたのです。