訓読 >>>
171
高光る我(わ)が日の皇子(みこ)の万代(よろずよ)に国知らさまし島の宮はも
172
島の宮(みや)上(うへ)の池なる放(はな)ち鳥 荒(あら)びな行きそ君(きみ)座(ま)さずとも
173
高照らす我(わ)が日の御子(みこ)のいましせば島の御門(みかど)は荒れずあらましを
174
外(よそ)に見し真弓(まゆみ)の岡も君(きみ)座(ま)せば常(とこ)つ御門(みかど)と侍宿(とのゐ)するかも
175
夢(いめ)にだに見ざりしものをおほほしく宮出(みやで)もするかさ檜(ひ)の隈廻(くまみ)を
要旨 >>>
〈171〉輝き照らす我が日の皇子が、万代かけてお治めになるはずだった島の宮なのに。
〈172〉島の宮の上の池にいる放ち鳥よ、ここを見捨てて行かないでおくれ。君がいらっしゃらなくなっても。
〈173〉わが日の皇子がご健在でいらっしゃれば、島の御殿は荒れることなどなかっただろうに。
〈174〉これまで無縁の所と見ていた真弓の岡も、皇子がずっとおいでになるのであれば、永遠にお鎮まりになる御殿としてお仕えすることになろうか。
〈175〉こんなことになるとは夢にも見なかったのに。心晴れずに重苦しく、宮への出仕をすることであるよ、桧のあたりを。
鑑賞 >>>
草壁皇子が薨(こう)じた時、舎人らが捧げた挽歌23首のうちの5首です。「舎人」は皇族などに仕えた下級役人のこと。草壁皇子は、天武天皇亡きあと、皇后(のちの持統天皇)が次代の天皇と恃(たの)んだ、ただ一人の皇子でしたが、28歳の若さで世を去ってしまいます。皇子に仕えてきた舎人たちは衝撃と悲しみに沈み、多くの挽歌を残しました。
171の「高光る」は「日」の枕詞。「島の宮」は、ありし日の皇子が住んだ宮殿の名。もとは「島の大臣(おおおみ)」とも呼ばれた蘇我馬子(そがのうまこ)の邸宅だったと考えられており、「島」とは、池の中に島を浮かべる庭園の様式で、当時まだ珍しい様式の庭園だったために「島の宮」と呼ばれたと推測されています。石舞台古墳の西にある島庄(しまのしょう)で発見された大規模な建物跡がそれとされており、近くに人工池跡も確認されています。
172の「放ち鳥」は、放し飼いにしてある鳥、あるいは死者が生前飼っていた鳥を放してやること。「荒び」は、疎んじて遠ざかること、自然の手に戻ってしまうこと。「な~そ」は、禁止。174の「真弓の岡」は、皇子の籠る所、「侍宿」は、宿泊して勤務すること。175の「おほほしく」は、心が晴れない。「さ檜の隈廻」の「さ」は、接頭語。「檜の隈」は、明日香村檜前。「廻」は、~を通って。
皇后は、皇子が亡くなった翌年の690年、皇子の遺児で孫にあたるある軽皇子(かるのみこ)が成長するまでのつなぎとして即位し、持統天皇となりました。彼女の治世は、夫と息子の死を乗り越えた先からスタートしたのです。